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noteとの向かい合い方は人生の向かい合い方と変わらないのかもしれない

私は毒親気質の親から育っているせいか?人の目が気になってしょうがない。
毒親気質の親のせいにばかりしてはいけないのだが、切り離し方が下手だ。
性質のまともな親に育った人は、全員とは言わないが、そんなに人の目ばかり気にして生きていないと思うからだ。

自分らしくものを言ったり、自分らしく行動をしたり、能力が素晴らしかったり、考え方が素晴らしかったりしている人を見ると、私は羨ましくてしょうがなくなる。
自分にはできなかったことだからだ。
そんな私だから文章も人間も堅苦しい。
理屈っぽい(思考する)話が大好きだ。
そんな私の話に付き合ってくれる人の方が少ない。

下手したら嫌われてしまうし、苦手意識を持たれてしまうことなんてざらだ。
それでもそんな自分を完全には変えられていない。
育ちがものを言っているのだ。
毒親気質の親育ち故に、人格に自信のなさが残る。

時に人が羨ましくてしょうがない。
人がすごいように見えてしまう。
羨ましいから、人を誉めてしまう。
すごいなと思うから、人を誉めてしまう。
しかし、誉めすぎだと困惑されてしまうことがある。
居心地の悪さのようなものを与えてしまうのだろうか?
それは実生活でもネットの中でも同じことだ。

羨ましさから人を誉めるのは、自信のなさを与えてしまうのだろうか?
すごいなと思うことから人を誉めるのも、自信のなさを与えてしまうのだろうか?
しかし私の中にある自信のない雰囲気は、多分今すぐに完全消失は難しい。
でも少しでも薄めていきたい、自分という存在と、もっと遊んでもいいのかもしれない。

私が人を誉めた時、困惑通り越して怪訝そうな対応をされることもある。
そんな話をしたら、
「その人とは縁がなかった(価値観が合わなかった)んですよ。」と言ってくれた人がいた。

その言葉にとっても救われた。
なんだか少しだけ自分に自信を持っていいと思えた。
今は少しずつ自分と遊んでいる。
相変わらず理屈っぽいが、音楽好きな自分でカバーしている感じだ。(笑)

noteの良いところは、自分の思いと向かい合えることだ。
書くという行為は素晴らしい。
自分を知る、これほどに終わりのない旅(学習)もない。
この終わりのない旅(学習)は、私にとって人生そのもののように感じられるのだ。

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