2024年アニメ映画評23・「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」
5月最後の作品で「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の完結篇。当初は4月に上映予定だったものの何故か延期になった。前篇は結構よかったが、後篇はトーンダウンしており、少し微妙。6点。
前篇は直仁というビーム兵器が侵略者の小型船母艦にぶっ放されたところで終っていて、後篇はその続き。原作だと三巻の中盤くらいに該当するが、八・九巻に入っている別世界線のおんたんと門出の話が前篇に繰り込まれているので牛歩進行だったわけではない。
おんたんと門出が大学生になったところから映画は始まり、侵略者の大葉と仲良くなったり、侵略者擁護派の同級生ができたりと、学生生活を謳歌する。その裏で、母艦の限界が近いことを知った日本政府は巨大飛行物体・方舟を建造しつつ侵略者の虐殺を加速させる。夏休みに入り、おんたん一行は海へ旅行に行くが、その合間にXデーが到来し、母艦は爆発。しかし、大葉の活躍もあって被害は最小限に抑えられた。
母艦の爆発がさほどでもなかった点は原作からの改変箇所で、話をまとめる上ではいい変更だったと思うが、感激する程かと言われると、うーん、って感じ。原作は、母艦爆発後のディストピア篇が投げ槍で、処理に困ったのか、世界線移動というチートを使って話を畳んでいた。だが、このやり方は読者からすると、何じゃそりゃとなる。そもそも世界線を渡る設定はそれほどよくなく、どうせやり直しできるんでしょと思って緊迫感が削がれる。
この作品のストーリーは、小さな罪がとんでもない破滅を齎し、バタフライ・エフェクト的だが、当事者の門出・おんたんに自覚がないため、その設定を持ってきて何がしたかったのかよく分からない。一応、映画版では全ての真相を知っている大葉が帳尻を合わせ、おんたんの日常を守っているものの、原作ではそういう描写もないので、災厄が起きて大変だねえという感想にしかならない。この過去設定をやめて、よく分からない侵略者と母艦に振り回される話にすればよかったと思う。
にしても、おんたんは侵略者に興味がある設定だったのに、大葉に詳しいことを聞かないし、前篇でちょびっと侵略者を調べた以外は全然リサーチしないし、本当に関心があったのか謎。キャラがブレているのかもしれない。
話の構成としては群像劇で、それぞれの思惑が分かるのは結構いいとは思う。少なくとも「ギヴン」よりは手付きが巧みである。ただ、出てくる人が殆ど愚昧なのはどういうことなのか。群像劇なら、もう少し色んな人物がいても良かろうに。陰謀論者や自己満足的な市民活動家、政治家辺りはかなり小馬鹿にされていたが、論者はともかく、後二者は誰もがあんなに頭空っぽではないのでは? まあ、政治家絡みだと、優秀とされている人も出てはいたが、流石にあの総理が目立ちすぎだなあ。一番、人間臭くて印象に残ったのは、侵略者殺害に後悔と疑問を抱いていた自衛隊員。
前篇もそうだったけれど、絵は原作をトレースした箇所が多く、創造性に乏しい。アクションは見せ場となりうるが、話の構造上、そういう場面はほぼないので全般に普通だなあって思ってしまった。とはいえ、そこら辺のテレビアニメよりレベルが高い。だが、映画と思うと……。いやはや贅沢なクレームだ。CGはかなりキレイで、母艦とか手書きかと思ってた。
テーマはいくつかあって、一つは、諏訪部の言っている大事に凡人は関われないという話。これは大局的災厄に対して一般人は無力で、ゆえに自らの大切な人だけは守らなくてはならない、というドメスティックな倫理である。ただ、これを敷衍すると、災害時ならば大切なもののために他者を害してもよいとなり、世紀末万歳に陥りかねない危険性がある。
もう一つは、おんたん・門出に見られるような、そうは言っても凡人が世界を無自覚に変えうるという話で、これは個人に権能が集中するネット社会だからこそリアルだろう。炎上で人を殺すのに近いものがある。「ドラえもん」を模した作中作のイソべやんの主題も個人の過ちによる死や破滅で、この主題を喚起する機能があるだろう。一方、イソべやんにはバタフライエフェクト的側面もあり、些細な悪事がドミノ倒しに最悪の結末を齎す(まあ、逆漫画なので、そこまで胸糞ではないが)。
後は未知との遭遇もあるが、これは前篇の感想で述べた通り、「第九地区」と似たものである。