「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」の感想
今年中に読むことを目標にしている本の一冊「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」(田中宏巳 ゆまに書房)を読み終わりました。
7月末には読み終えていて、次の本に取り掛かっているのですが、正直、読後のショックが大きすぎて、未だに心がもやもやしています。感想も書くか迷ったのですが、簡単に書きたいと思います。
太平洋戦争で、日本軍がニューギニア島で戦っていたことを知る人はハッキリ言って少ないと思います。
いや、自分は知っているよ、生還率10%の地獄みたいな戦場だったんでしょ、という人もいるでしょう。
でもそうすると「餓島」と言われたガダルカナル島の戦い、今でも日本陸軍の愚かさの最大の象徴して挙げられるインパール作戦などの、その他の日本軍の無謀な戦いの一つとして、埋もれてしまうかもしれません。
しかし、私はこの本を読んで、ニューギニア戦は太平洋戦争にとって、最も重要な戦いの一つではなかったか、と考えるようになりました。本の前書きから、田中宏巳さんの言葉をお借りしましょう。
簡単に感想を書くと言ったので、ニューギニア戦の重要さを語る為に少しだけこんな感じの例示をするにとどめておきましょう。(基準を合わせるために、すべての数字はWikipediaから引用しました。まぁ、色々と算出法がバラバラなので、Wikipediaというのは何かの引用には不向きなんでしょうね)
1.期間
(1)ガダルカナル島の戦い:1942年8月7日 - 1943年2月7日(6か月)
(2)インパール作戦:1944年3月8日 - 7月3日(5か月)
(3)フィリピンの戦い:1944年10月 - 1945年8月(10か月)
(4)ニューギニア戦:1942年3月7日~1945年8月15日(3年6か月)
(5)日露戦争:1904年2月6日 - 1905年9月5日(1年7か月)
2.日本人戦死者
(1)ガダルカナル島の戦い:19,200
(2)インパール作戦:72,000
(3)フィリピンの戦い:約430,000
(4)ニューギニア戦:127,600
(5)日露戦争:88,429
フィリピンの戦いの戦死者が際立ってはいるものの、本書の「あとがき」の田中宏巳さんの言葉を借りるなら、ニューギニア戦は「近代日本人の誇りの源泉でもある日露戦争よりも規模も大きく期間も長く、戦死者数もずっと多い」(P632)のです。
ニューギニア戦を戦ったのは安達二十三司令官率いる日本陸軍第十八軍。その相手は、マッカーサー率いるアメリカ、オーストラリアの連合軍です。マッカーサーは敗戦後の日本を占領統治したGHQの司令官として有名ですが、開戦初頭のフィリピン失陥後、太平洋戦争中は何をしていたかは、あまり知らない人が多いと思います。
「何をしていたか」というと、つまり、ニューギニアで日本陸軍第十八軍と延々と戦っていたわけですね。
上記にニューギニア戦の期間を書きましたが、マッカーサー軍団がニューギニア戦での勝利を確定したのは1944年8月で、そして、その2か月後にはフィリピンの戦いが始まります。
東条英機に代わって首相の座についた小磯国昭はフィリピンの戦いを「太平洋における天王山」と呼んで、移動可能な全兵力を投入しました。
フィリピン戦の期間は上記の通りですが、開始日が1944年10月17日。そして、早くも1945年2月3日にはマニラ市内に米軍が進入し、同市陥落でほぼ大勢が決しました。わずか3か月半…
再び田中宏巳さんの言葉を借りるなら、「あまりに呆気ない敗北であった。ニューギニア戦に比べれば、マッカーサーにとってフィリピンの戦いは掃討戦のように思えたに違いない」(PP19-20)
さらに、ニューギニア戦の戦いの意義はどうでしょうか。ここで、アメリカの側から戦争を見てみたいと思います。
1944年7月に、ワシントンで大統領、海軍のニミッツ、陸軍のマッカーサーらで対日侵攻作戦について話し合われたことが本書で紹介されています。
島伝いに日本本土近辺まで侵攻したニミッツの海軍は、グアムやサイパンのように台湾を占領可能と計画したそうです。しかし、日本人と関係が悪くない台湾人の存在、そして、日本軍占領下で巨大な戦力を有していると予想されたフィリピン(このときの米軍の予想した日本軍の数は30万人。しかし、実際は2倍以上の66万人)をどうするかについて問われ、上手く答えることが出来ませんでした。また、この時点の戦死者数も海軍の方が多く、この後、ニミッツは硫黄島、沖縄戦で更に多くの犠牲を出すことになります。
結局、フィリピンを攻略しないと日本本土の作戦は不可能と判断され、マッカーサーのフィリピン攻略が始まります。
ここで、ニューギニア戦での第十八軍の戦いの意義が分かるかと思います。第十八軍は日本本土に侵攻するマッカーサーを2年半もニューギニアに釘付けにしたのですね。
本書を読めば、第十八軍が信じられないほど過酷な状況の中、どれほど粘り強く、諦めずに戦い続けたかが分かります。詳細は本書を読んでいただくとして、ここでは簡単に上記の数字を少し利用してみましょう。
1.期間
(2)インパール作戦:1944年3月8日 - 7月3日(5か月)
(3)フィリピンの戦い:1944年10月 - 1945年8月(10か月)
(4)ニューギニア戦:1942年3月7日~1945年8月15日(3年6か月)
2.日本人戦死者
(2)インパール作戦:72,000
(3)フィリピンの戦い:約430,000
(4)ニューギニア戦:127,600
レイテ沖海戦の敗北で補給を絶たれた後のフィリピンの状況も悲惨なのは間違いないと思うものの、地獄の戦場と言われたニューギニアでは、期間としてあのインパール作戦の7倍。そして、戦死者としては1.5倍。数字だけでは色々な想像ができると思いますが、「マッカーサーと戦った日本軍」を読んだ後であれば、「共に補給が絶望的な状況でありながら、短期間で大きな被害を出したインパール作戦とフィリピンの戦い、長い期間を粘り強く戦ったニューギニア戦」というイメージを持ちます。
さらにこれは歴史を後から見た視点かもしれませんが、日本本土に大軍を侵攻させる能力を有していたのはマッカーサーでした。日本が降伏したため実施されなかった日本本土上陸作戦も、命令されたのはマッカーサーです。
インパール作戦も最近だと援蒋ルート遮断や大陸打通作戦との呼応などの研究が出ているようですが、マッカーサーの軍団をニューギニアで死に物狂いで食い止めている状況で、ビルマ・日中戦線でインパール作戦のような大作戦(しかも、失敗の可能性が高かった)を行う必要があったのか、と考えざるを得ません。
ニューギニア戦は「地獄のニューギニア戦」という言葉で表現されます。これは「米豪軍機のためにニューギニアへの上陸が極めてむずかしく、どうにか上陸しても、その後の補給に当てがなく、激しい敵の攻撃と飢餓と熱帯病にさいなまれ、何も施す術もなくつぎつぎに息絶えることから表現された」(P439)ものです。
それでも第十八軍は豪軍を主体にしたマッカーサーの軍団と戦い、戦闘に敗退しても、食料の無いジャングルや、崖のような山を何千人もの将兵が踏破して後方へ撤退し、粘り強く戦い続け2年半もマッカーサーの軍団を足止めしました。
この本を読んで、私はニューギニア戦を戦った日本軍について、どう評価して良いのか、未だに心が定まりません。
第十八軍については補給の無い中、絶望的な戦いを行ったニューギニア戦の惨状から、当時の日本陸軍の戦い方を批判することは出来ると思います。中央だけでなく、個々の部隊であったであろう様々な事件についても(本を読めば分かりますが)、おそらく人間が考え得る最悪のものもあったでしょう。
しかし、日本本土に来る戦力を持ったマッカーサー軍団を何年間も釘付けにした第十八軍の将兵は、無駄死になどではなく、私は彼らのことを、日本人として決して忘れてはならないし、哀れな人々と見てはいけないと思います。
(田中宏巳さん自身は「よく戦った」ことを評価の基準とする日本人の戦史の評価を否定されているのですが、第十八軍を率いた安達司令官について、「勝敗を抜きにして、日本人が好きな「よく戦った」ことを基準にするならば、安達が最高の評価を受けるにふさわしい」(P586)と述べています)
一方で、せっかく第十八軍が作り出した貴重な時間を、日本本土の大本営は有効に活用することが出来ませんでした。というよりも、本を読む限り、遠く中央では、ニューギニア戦が重要な戦いであるということを認識していなかったと考えざるを得ません。
ニューギニア戦について、「当時の日本軍は酷かった。ニューギニアで死んだ将兵は無駄死にだった」という評価を見たことが有るのですが、この評価は上記の通り、私は難しいところだと思っていて、「確かに日本軍、特に中央は酷かったけど、ニューギニアで死んだ将兵は無駄死にじゃなかったよ」と言いたくなってしまいます。田中さんの言葉を借りさせてください。
このような本来なら評価を受けるべき人々のことを、私はこの本を読むまでほとんど知りませんでした。
今回この本を読んで、戦争のことについては知らないことが多すぎて、何かを語るのは難しいのだろうと感じているところです。そして、このように必死に戦ってくれた人のことを知らずに生きてきて、何かを知ったような気がしていた自分を恥ずかしく思っています。
さて、少し話を変えて…
私は関東に住んでいた頃、著者の田中宏巳さんのお話を古書店「軍学堂」が主催する戦史に関する講座で何回かお聞きしたことが有ります。とても穏やかな、正に「学者さん」と言う感じの方で、さすが大学の教授を何年も務めていただけあるなぁ、とお話を聞いていました。
研究者・教育者としての田中宏巳さんの姿勢は、この本でも遺憾なく発揮されています。「あとがき」によると、国内外の史料にあたるだけでなく、ニューギニアの現地調査をふくめて調査に10年、そして3年半かけて執筆されたそうです。
国内外の膨大な歴史的な史料、現地調査に基づく正確な記述だけでなく、凄いな、思ったのは、本文の丁寧でかつ、とにかく読みやすい文章です。
600ページを超える本でしたが、夢中で読み進めることが出来ました。
また、軍学講座の際に凄く印象に残っていたことが有って、そのことも紹介したいと思います。
それは海軍のフィジー・サモア攻略作戦(FS作戦)の講座でのことでした。
FS作戦は連合軍が反撃をするとしたら、必ずオーストラリアを拠点にし、ニューギニアからフィリピン、そして日本本土に進行するという史実上も正確な予想の下、フィジー・サモアを攻略し、アメリカとオーストラリアの連携をあらかじめ遮断してしまおうという海軍の作戦(米豪遮断作戦)です。この作戦は海軍軍令部の富岡定俊が建てた作戦ですが、結局、ミッドウェーの大敗北もあり実現できませんでした。
この講座の時に聴講していた方の一人が「フィジーやサモアなどの南太平洋は遠く、補給が難しいので、たとえ占領できたとしても維持は難しかったのではないですか」と田中さんに質問をされました。
その際、田中さんが即座に「難しかったでしょうね」と答えつつ、「しかし、米豪が遮断されるという事態は連合国にとって、とても嫌がる状況だった。ミッドウェーのような無駄な作戦をするくらいなら、FS作戦をするべきだった」と語気を強めて仰っていました。
あの時、なんで田中さんはあんなに怒ってたのだろう、と思っていたのですが、この本を読んで、その理由が分かりました。
もしも、米豪遮断がされていたら、もしくは、少しでも妨害出来ていたら…
第十八軍の将兵の苦しい戦いを少しでも軽くすることが出来たと思われていたのだと思います。
本の中で田中さんは、粘り強く、人間の出来る限界まで戦い、そして死んでいった第十八軍の将兵、そして、最後まで逃げずに将兵と共に在った安達司令官への称賛を惜しまない一方、ニューギニア戦線の重要性を理解出来なかった大本営、海軍を強く非難します。
また、無駄と分かっていても、そこから学ばずに定められた通りの突撃を繰り返す日本陸軍将兵の硬直した思想、そして、それを生み出した日本という民族の特質、更にはニューギニア戦の歴史的な検証を碌にせず、戦争を単に「連合軍の物量に負けた」という安易な(しかも間違っている)評価しか出来ていない現代社会の日本にまで批判の範囲を広げます。
戦中の日本軍や、戦争の歴史を直視しない戦後日本を非難する本は山のようにありますが、この本ほど激越で、しかも正鵠を射ていると感じたものには出会ったことが無いかもしれません。
そういう強い批判の文章に出会う度に、FS作戦の講座で質問に答えていた時の田中宏巳さんの姿が重なりました。
だから、この本は膨大な史料にあたって、長い調査・研究の末に作られた歴史的大著であるだけでなく、著者の人柄まで滲み出ている本でもあるのだと思います。
さて、簡単に感想を書くと書きましたが、長くなってしまいました。
とにかく、この本を読んで、私は「こんなにも太平洋戦争について知らないことが有る」「地獄のような戦場で粘り強く戦い死んでいった人々のことを詳しく知らないまま生きてきた」ということにショックを受けてしまいました。そして、そもそも、戦争について「自分にはさらに知らないことがたくさんあるのだろうな」とこれまで以上に自覚した次第です。
なぜニューギニア戦について知らなかったのだろうという点については田中宏巳さんが「消されたマッカーサーの戦い」という本を出されていて、この本は今年読む本のリストに入っています。読み次第、分かったことが有れば感想を書きたいと思います。
私はあまり、こういう本の推薦の仕方をしたくないのですが、「マッカーサーと戦った日本軍 ニューギニア戦の記録」は太平洋戦争について考える人は是非、読んでおかなければならない本だと思います。
すこしでも興味がある方は、是非、手に取られてみてください。安価で手に入りますし、読まれた後は太平洋戦争に関する見方が必ず変わります。
では、次の本の感想でお会いしましょう。
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