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加藤のファミリーヒストリー6
尚文は1948年慶應大学を卒業すると横浜にあった鉱工品貿易公団に入職しました。
ぼうえき‐こうだん【貿易公団】
第二次世界大戦後の貿易再開に際し、国の定める輸出入計画に従い、輸出入に関する業務を行なう目的で昭和二二年(一九四七)に設立された全額政府出資の特殊法人。食料貿易公団、原材料貿易公団、鉱工品貿易公団、繊維貿易公団の四つがあった。同二四年から二六年にかけてそれぞれ解散。
その後、貿易公団から転職し、初代人事院総裁浅井清の秘書になります。その経緯は不明ですが、貿易公団時代から組合運動に専念したり、労働問題に興味を持っていたようです。
1953年5月16日 尚文は幸枝と結婚します。
蜂谷さんの文章にあったまさにフランス人形のような美しい女性。
この美しい妻と交わした約束は仕事を終えて帰る時には電話をかけること。
ところが、ある日夜中まで飲んで酔っ払い、いざ帰ろうとした時に近くに電話がなく、近くの交番に行って電話を貸してくれと頼んだのを断られ、警官を殴る!という騒ぎを起こしました。
翌日の新聞にも出てしまったそうです。
当時でももちろん大騒ぎですが、今ならネットニュース確実だったでしょう。
この事件がきっかけで人事院を退職(解雇?)になった尚文は、職を失います。
フランス人形のような妻も洋裁の内職をして家計を助けていました。
尚文は書く仕事をしようと、自分の原稿を売り込みに行く日々だったようですが。1960年 三一書房から出版された労務管理という本がベストセラーになります。
それからは労働に関する本を続けざまに出版し、生活は一変しました。
尚文はここから評論家になっていくのです。
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