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わたしのロールケーキ

神楽坂の老舗甘味処《紀の善》が閉店していたと知り、しばし言葉を失う。

店主の高齢化と、諸般の事情とのこと。

柳緑色が悠然とたたずむ抹茶ババロアを、もう見ることもできないのだろうか。

ネットでも、突然の別れを惜しむ声が相次ぐ。
同じく看板商品のあんみつが、ある楽曲の歌詞やMVに登場してからは、若い方にも認識されていたようだ。
菓子の思い出は、歌詞でも継承されていくのだな。

そんな別れあれば、再会あり。

横浜の老舗洋菓子店《馬車道十番館》が、百貨店に新たな店を構えた。
しかも、最近は馬車道の本店でしかお目にかかれなかった生ケーキを取り扱うという。

幼い頃は、自宅の近くにも売店があった。思えば、洋菓子原体験である。

母の知り合いが勤めていたこともあり、たまに買ってもらっていたが、引っ越してからは長らくその存在を忘れてしまっていた。

駅近の百貨店にオープンするとなれば、足も運びやすい。よく行く百貨店なのに、そわそわしながら店に向かった。

定番のショートケーキやモンブランに囲まれながら、目当てのそれはひとつだけ残っていた。

ぽつん、というよりは、お待ちしてましたよ、と言っているように見えた。

王冠のような薄切りパイナップルが天面にあしらわれた、淡黄色のロールケーキ。
子供心に、ツヤツヤのパイナップルがのったケーキは特別感があって、よく覚えている。

フィーヌバケットというしゃれた名前がついていると知ったのは、ごく最近のことだ。

少し小さくなったように感じたが、それはわたしがありとあらゆるお菓子を食べて、縦にも横にも幅をきかせたからだろう。

ひよこのような丸くて優しい姿形と、パイナップルの冠は昔のまま。

ひさびさの再会の高揚感と、変わらぬ姿への安堵感にくるくると巻かれながら、淡黄色のうずまきにフォークをいれる。

スフレのようにきめ細やかなふわふわの生地と、なめらかな生クリームは、双方のよさを活かし合う絶妙なバランス。
多幸感あふれるやわらかさの合間に、パイナップルの陽気な甘みと酸味がいいアクセントだ。

自分の言葉で感想を語れるようになるまで、フィーヌバケットが当時の姿をとどめてくれていたのがうれしい。

正直、最後に食べたのがあまりにも前で、味ははっきり覚えていなかった。そうそうこの味!とまではならなかったが、こんなに繊細で心はずむものを食べていたのか、7歳のわたし。

その頃は、白衣がまぶしいかかりつけ医に憧れて医者になりたいと言い出し、たいそう親を喜ばせたものだ。

だがそれは、数学が絶望的にできなさすぎて、あっさり断念することとなる。

結果、わたしはおいしゃ・・・・さんではなく、おかしや・・・・さんになった。

「好きなもの」「惹かれるもの」という、スフレよりふんわりとした基準だけで就職活動をしていて、縁があったのが洋菓子製造業だったのだ。

お祝い、手土産、お詫び、ご褒美、記念、ストレス発散。
ここ数年は、自由に外出できない日々が続く中で、菓子は手軽に楽しめる娯楽や癒やしとしての役割も担っていた。

菓子には、豊富な栄養や実用性はなくても、気持ちをプラスに向かわせる見えない力がある。

体の健康を守るのが医者の仕事なら、菓子屋は心の健康を守る仕事なのかもしれない。思えば、自分がどう働きたいかのベクトルは変わっていなかった。

もちろん、菓子の食べ過ぎには要注意で、用法・用量は正しく守りたい。

そして、五感すべてにおいて、記憶や思い出に残る仕事でもある。

味覚はもちろん、鮮やかな色や芸術的なかたち、焼きたてのにおい、フォークやスプーンを入れたときの感触、包みやセロファンをはがすときの音。

老舗の部類に入る自社の商品を見て、もっと時代を反映した「映え」る見た目や、斬新な商品があればいいのに、と思うことがないわけではない。

でも、長年続いている商品には、誰かの思い出が宿っていることも忘れてはならないな、と思った。
わたしにとって、フィーヌバケットがそうであるように。

それも商品力を培う大事な構成要素だとあらためて気づかされた。

自社商品も知らないだれかの思い出になっているはずだから、変わらないこと、続いていることに誇りを持つべきだとも。

そしていつか、紀の善のように歌詞というかたちで聴覚にも残る菓子となりたい。

ありがとうフィーヌバケット

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