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感想『車輪の下 著:ヘルマン・ヘッセ、訳:高橋 健二』
ヘッセの『車輪の下』を読んだ。自伝的小説で、ヘッセの分身ともいえるハンスを中心に物語は進んでいく。大人たちの圧力により、子供らしさを潰されるハンス。しかし読後は、ハンスをかわいそうとは思わなかった。なぜなのか。
!!!!以下、ネタバレを含みます!!!!
あらすじ
町で抜けて優秀なハンス・ギーベンラートは、子供ながらの趣味・嗜好を制限され、ありったけの教育を詰め込まれ、試験に通る。
学校での生活もまた彼を制限した。次第に心身がボロボロになり、学校をやめて故郷に戻る。そこから。。。。
ヘッセの描く大自然、大人と社会の無意識の圧力、詰込み教育への批判。
など様々な面で評価されている作品。
感想
なぜにハンスをかわいそうだ、と思わないのか。
それは、社会という車輪を回し続ける側よりも、車輪に潰された後にもがくその姿が、素晴らしくみえたからだ。
この考えのきっかけは、ある比較対象の存在が関係している。カズオ・イシグロの『日の名残り』の主人公スティーブンスだ。ハンスが砂利なら、スティーブンスは車輪の中心だ。しかし自分には、スティーブンスの方が虚しく見える。
執事であるスティーブンスは、戦時下の外交会議を開く主人に仕えることで、世界の車輪の中心にいた自負がある。しかし過去を思い返すと、「あの時、ああしていれば、何か変わっただろうか」という後悔が生じる。
「私は執事なのだから」という理由を盾に、その時その時に自分で考え結論を出すことを避け続けてきた。盲目的に車輪を回し続けてきた。確かに車輪の中心にいたかもしれないが、せっせと回させられていただけである。
ならばいっそ潰された方が、かっこいいだろう。
ただし、潰されて這い上がれなかったら元も子もない。スティーブンスから学べることは多くある。1つ挙げると、「何か自分が絶対的に信じれるものがあるかどうか」である。翻訳の高橋健二氏も似たようなことを言っている。
ヘッセはつまずきながらも、詩人になりたいという一念を心中に燃やし続け、…………..、内部に鬱積していたものを発散させることができたのに、ハンスにはそれができなかったからである。
ヘルマン ヘッセ (著), Hermann Hesse (原名), 高橋 健二 (翻訳)
283頁より抜粋
傍から見れば、スティーブンスもハンスも今を情熱的に生きているようにみえる。名家の執事として、勉学に励む少年として。しかしハンスのものは他者によって、無理やり信じ込まされたものである。スティーブンスには偉大なる執事という心の底から信じこめるものがあったが、ハンスにはない。だから、前半のハンスは、人間味がなく空っぽにみえる。
何か自分が絶対的に信じれるものがあれば、車輪に潰されても復活できるかもしれない。しかし、信じすぎるとスティーブンスのようになる。
すごく難しい。
最後に
「ならばいっそ潰された方が、かっこいいだろう。」
これが、結果論+理想論の馬鹿野郎であることは分かっています。スティーブンスを非難する権利は、自分にはないし、するつもりもありません。社会という車輪は力が強いです。反抗し、新たに自分で車輪を作るよりも、それに加勢して一緒に回していた方が楽なので。
そして、子供らしさを潰す教育を肯定しているわけでもありません。
(抽象的な言葉しか出てこないのは、自分に教養がないからです。)
ありがとうございました。
では。
2025年2月20日木曜日8時6分 天気良し