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【ショートストーリー】彼女がくれた一歩
1
田中修一にとって、朝の通勤電車は退屈で、少しばかり苦痛な時間だった。決まった時間に同じ電車に乗り、見慣れた顔ぶれに囲まれる。
それは、無感動な日常の延長だった。
だが、その中に一人だけ、彼の心をざわつかせる存在がいた。
最後尾の車両、端の座席にいつも座る女性――彼女の静かな佇まいには、周囲の喧騒とは違う何かがあった。
淡いベージュのコート、柔らかくまとめられた髪。
そして、まるで遠い世界を見つめるような瞳。彼女の姿を見るたびに、修一は胸の奥が妙に騒ぐのを感じていた。
「……佐藤優子?」
初めてその女性を見たとき、修一は小さな声でそうつぶやいていた。
彼女は、高校時代に修一が片思いしていた初恋の相手・佐藤優子に驚くほど似ていた。
だが、彼はすぐにその考えを打ち消した。
優子が行方不明になったのは、10年前の大地震のときだった。数か月後、死亡扱いとなり、地元でもその話題で持ちきりだった。
「似ているだけだ……」
修一は、そう自分に言い聞かせた。
だが、彼女の面影を目にするたび、昔の記憶が呼び起こされる。
優子に思いを伝えられなかった自分の無力さと、もう二度と彼女に会えないという事実。
その痛みは10年経っても消えることはなかった。
けれど、彼の苦しみは過去だけのものではなかった。
現在の修一もまた、あの頃と変わらない状況にいた。
会社の同僚で気になっている女性がいるが、結局声をかけることができないまま、何ヶ月も過ぎていた。
優子への後悔がトラウマとなり、彼は臆病になっていたのだ。
「なんで俺は、いつもこうなんだ……」
自分を責めるたび、電車で見かける「優子に似た女性」の姿が、彼の胸を一層締めつけた。
まるで彼女の存在そのものが、「行動を起こさない自分」への無言の問いかけのように思えた。
修一は、自分の心の中で湧き上がる期待を振り払おうとしていた。
「もしも彼女が本当に優子だったら」という愚かな夢想。
だが、それが愚かだと分かっていても、視線は自然と彼女を追ってしまうのだった。
2
その朝、いつもの電車に乗り込んだ修一は、車内の端の座席に座る「優子に似た女性」を見つけ、胸の奥に微かな緊張を覚えた。
彼女は窓の外を眺め、片手にハンカチを握りしめていた。無意識に視線を向けていると、彼女が立ち上がるのが見えた。
「……降りるのか?」
修一はそう思ったが、次の瞬間、その手から白いハンカチがふわりと床に落ちた。彼女は気づかず、そのままドアのほうへ歩き出している。
「待ってください!」
気がつくと修一は立ち上がり、そのハンカチを拾って彼女に声をかけていた。
彼女が驚いたように振り返る。
その瞬間、修一は息を飲んだ。近くで見れば見るほど、彼女は優子に似ていた。
「これ、落としましたよ」
「……あ、ありがとうございます」
彼女の声は柔らかく、どこか懐かしさを感じさせる響きだった。
修一はその場に立ち尽くしそうになる自分を振り払い、ハンカチを渡した。彼女はふわりと笑い、その微笑みが修一の胸を強く打った。
「よく気づいてくださいましたね。助かりました」
「いや、たまたま目に入っただけです。気にしないでください」
修一の言葉はぎこちなく、どこかしどろもどろだった。だが彼女は笑顔のまま、「ありがとうございます」ともう一度言い、軽く頭を下げた。
その日を境に、修一と彼女は会話を交わすようになった。
彼女は名前を明かさず、電車内でだけ話す奇妙な関係が続いた。
それでも修一は、彼女との短い会話が朝の時間を特別なものに変えていくのを感じていた。
ある日、電車が少し遅延していたこともあり、二人は長めの会話をすることになった。
その中で、彼女が突然こんな提案をしてきた。
「田中さん、人生で一番後悔していることって何ですか?」
修一は不意を突かれたように感じた。彼女は真剣な眼差しで修一を見つめている。
いつもの柔らかな雰囲気はどこか影を潜め、何かを探るような鋭さがあった。
「後悔……ですか?」
修一は、彼女がなぜそんな質問をするのか理解できなかったが、その目を前にしては、適当にごまかすことはできなかった。
「……学生の頃、初恋の相手に告白できなかったことですね。」
彼は小さく笑いながら話し始めた。
遠くから見つめているだけで、結局何もできなかったこと。
その人が地震で行方不明になったときの後悔。
そして、今もなおその経験が自分の足を引っ張っていること。
「今もです。きっと、あの時と同じように……僕は怖がってるんです。」
彼の声には自嘲が滲んでいた。
話しながら、自分がいかに変わっていないかを思い知らされた。
彼女は黙って修一の話を聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「私も後悔していることがあります。本当に伝えるべきことを、伝えられなかったことです」
その声には深い悲しみが宿っていた。
だが、それ以上のことは語らず、彼女は話題を変えた。
その日、修一は彼女の言葉が胸に刺さったまま、会社に向かうことになった。
3
その朝、修一がいつもの電車に乗り込むと、彼女が既に座っているのが目に入った。
だが、どこかいつもと違う気配が漂っていた。彼女は静かに外を眺めているが、その表情には、一言では言い表せない深い影が落ちているように見えた。
「おはようございます」
「おはようございます」
二人の挨拶はいつも通りだったが、彼女の声には淡い翳りが含まれていた。
修一はそれに気づきつつも、その理由を尋ねるべきか迷いながら、結局何も言えないまま時間が過ぎていった。
電車が駅に到着し、彼女が降りる準備をし始めたとき、ふいに彼女が口を開いた。
「田中さん、会えてよかったです。でも……明日会えるかどうか、わかりません」
その言葉は唐突だった。修一は一瞬、何を言われたのか理解できず、ただ目を見開いて彼女を見つめた。
「え? どういうことですか?」
彼女は一瞬だけ微笑み、何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。
そして、静かに首を横に振ると、そのまま立ち上がり、電車のドアが開くタイミングで足早にホームへと降りていった。
修一はその場に立ち尽くしていた。
彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回り、その意味を捉えようと必死になったが、何も分からなかった。
次第に胸の中に焦燥感が広がり、彼女の背中を追うべきだったのではないかという後悔が押し寄せた。
その翌日、彼女は電車に現れなかった。
修一はいつものように彼女が座る席を見つめていたが、その空白が埋まることはなかった。
その日の昼、会社の休憩室で流れていたニュースが耳に飛び込んできた。
「先週〇〇区の道路工事現場で発見された人骨について、DNA鑑定の結果、10年前の地震で行方不明となっていた佐藤優子さんのものであると判明しました。本日、遺族に引き渡され、優子さんは故郷に帰る予定です」
修一の手が止まり、息が詰まるような感覚に襲われた。
ニュースでは、現場の様子や人骨が発見された状況が映し出されていた。
その合間に映された優子の過去の写真――それは、修一がこの一週間、毎朝電車で会話を交わしていた彼女そのものだった。
「一週間前に……発見された?」
修一の脳裏に、彼女との出会いの日が浮かび上がった。
まさに一週間前、彼女は突然修一の目の前に現れた。
それは、遺骨が発見された日と一致していた。
彼は愕然とした。彼女が「優子」であり、幽霊として自分の前に現れていたのだと理解した。
そして、彼女が「明日会えるかどうか、わからない」と言った言葉の意味も、この瞬間すべてが腑に落ちた。
彼女が現れたのは、遺骨が発見され、故郷に帰る準備が整うまでの一週間という短い間だった。
彼女は最後に修一に伝えたい何かがあって、自分の前に姿を見せていたのだ。
4
修一は、自宅に戻るとすぐにテレビのニュースをつけた。画面には再び道路工事現場と優子の写真が映し出されていた。
ナレーションが「遺族の手で故郷に戻る」という言葉を繰り返すたび、修一の胸には言いようのない感情が渦巻いていた。
「彼女が……本当に優子だったんだ。」
あの日々がすべて現実だったのか、彼の中にはまだ半信半疑の気持ちもあった。
しかし、彼女との会話や笑顔、そのすべてが鮮明に記憶に残っている。とても幻だとは思えなかった。
修一は、ふと彼女が最後に言った言葉を思い返した。
「会えてよかったです。でも……明日会えるかどうか、わかりません」
それは彼女自身の「別れ」を告げる言葉だったのだ。
彼女は、自分が故郷に帰る前に、修一と過ごす時間を選んだ。
なぜ自分だったのか――それは明確ではない。
だが、彼女が伝えたかったのはきっと、「後悔を残さないで生きてほしい」という思いだった。
その日の夜、修一は久しぶりに机に向かい、ノートを開いた。
それは高校時代から使っていた古いノートで、片思いの相手・佐藤優子に宛てた手紙の下書きが書かれていたものだった。
「告白なんて、できるはずがない。」
過去の自分の筆跡が、そう書き残しているのを見て、修一は苦笑した。
何も変わらない自分を責め続けてきた時間が、どれだけ無意味だったかを今さら思い知らされた。
だが、彼は気づいた。優子との一週間は、過去に踏み出せなかった自分を解放するための時間だったのだ。
彼女は最後に彼の前に現れ、もう二度と同じ後悔を繰り返さないように導いてくれた。
修一はノートを閉じると、深呼吸をしてから一つ決意を固めた。
翌日、修一は会社で、これまで気になっていた同僚の佐々木恵に声をかけた。
彼女は控えめで、だがどこか温かい雰囲気を持った女性だった。
修一が話しかけると、彼女は少し驚いた様子だったが、すぐに微笑み返した。
「今度、一緒にお昼でもどうですか?」
その言葉を口にした瞬間、修一は自分がどれほど緊張しているかに気づいた。だが、同時に不思議なほど清々しい気持ちもあった。
恵が笑顔で頷いたとき、修一は優子の微笑みを思い出した。
彼女がどこかで見守ってくれているような気がした。
5
朝の電車に乗り込むと、修一は自然と端の席に目を向けた。彼女がいつも座っていた場所だ。今日もその席には誰もいない。
けれど、胸の奥を締めつけるような感覚はなかった。代わりに、静かな空白がそこに広がっているように思えた。
修一は座席に視線を残しながら立ったまま車窓の外を眺めた。街並みがいつも通り流れていく中で、少しだけ冬の日差しが柔らかく揺れている。
電車が次の駅に着き、ドアが開く。修一は背筋を伸ばし、少しだけ足取りを軽くして外に出た。
何も変わらない朝だった。
けれど、どこか遠くで新しい風が吹いている気がした。
(了)
(画像:DALL-E-3)
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