勝手にご飯映画祭④ 「92歳のパリジェンヌ」のリオレ
はい、またお会いしましたねー。皆さん、映画はお好きですか? 邦画が好き、洋画が好きなんて好みはあっても、映画が嫌いだという人は少ないでしょう。
ところで、SF、ラブストーリー、ホラー、時代劇…いろんなジャンルがありますが、ジャンルにかかわらず多くの映画に登場するシーンがあります。それは食事シーンです。なぜ多くの映画に食事シーンが登場するのかといえば、映画は「人」を描くもので、そのためには食事に触れない訳にはいかないからです。
作品によって重要度はさまざまですが多くの作品で、そこに登場する料理にはその料理でなければならない理由があります。しかし、たいていの映画では時間の都合でその理由にはあまり触れません。
そこで、登場する料理に注目して映画を紹介するのが「勝手にごはん映画祭」なんですよ。今月はフランス映画「92歳のパリジェンヌ」の「リオレ(Riz au lait)」を妄想します。
92歳のパリジェンヌ
若いころ助産師をしていたマドレーヌは、子どもや孫にも恵まれ、現在はパリで独り暮らしをし、誰に気兼ねもしない穏やかな老後を過ごしている。しかし、自分ではまだまだ元気なつもりなのだが、数年前からできなくなったことが増えていることが気がかりだった。
娘のディアーヌと息子のピエール、孫のマックス達が祝ってくれる92歳の誕生会で、マドレーヌは「2カ月後の10月17日に私は逝きます」と、自ら命を絶つ宣言をし、家族を驚かせる。
息子のピエールは母親を老人性うつ病だと決めつけ、老人ホームへ入れるべきだと言う。
娘のディアーヌは老人ホームには反対するが、かといって母親の言う通りにするつもりもない。困ったディアーヌはマドレーヌに同居を提案するが、それさえもマドレーヌは断る。
マドレーヌの気持ちを理解してくれるのは、天真爛漫なアフリカ系女性で、身のまわりの世話をしてくれるメイドのヴィクトリアだけだった。
それからしばらくしたある夜、ボヤ騒ぎを起こし、マドレーヌは救急車で運ばれて入院することになる。病院で点滴をつけたまま死ぬのは嫌だと訴える母親にディアーヌは心を動かされはじめる。
数日後、散歩に出たマドレーヌは病院の外で産気づいている女性を見つけ、無事に赤ちゃんをとりあげる。しかし、無理をしたせいで体調を崩し、病院のベッドで寝込んでしまう。その夜、マドレーヌはオネショをしてしまった。病院ではよくあることで、看護師は笑顔でおむつを渡すが、マドレーヌはショックに打ちひしがれる。
翌日、面会に来たディアーヌは、元気がない母親を見かねて、病院から連れ出し家まで送り届ける。自宅に戻ったマドレーヌは大喜びし、ディアーヌとワインで乾杯し、昔の写真を眺めながら親子の懐かしい思い出に花を咲かせる。楽しそうな母親を見て、ディアーヌは母親の決意を受け入れる。
高齢者ドライバー
逆走やブレーキとアクセルの踏み間違い等、高齢者による交通事故が社会問題になってからずいぶん経ったような気がします。他人を巻き込んだ死亡事故が大きく報道され、免許の返納が推奨されているのに事故は後を絶ちません。
高齢者ドライバーに免許の返納を勧めると、ほとんどの人が拒否します。理由は「時期が来れば返納するつもり」「運転できないと不便だ」「他人に言われると腹が立つ」等です。すべての答えの根底には「自分は大丈夫」だという自信があります。これは過信なのですが、若い人の過信と高齢者の過信は少し違うような気がします。
プラスの過信とマイナスの過信
若い人の過信は、「自分ならできる」というプラス過信です。今風に言えば「ワンチャン有るかも」ですね。
高齢者の過信は「ダメかも知れない、でも昔はできたから何とかなるかも」というマイナス過信です。こちらは「ワンチャンないかも」ですね。
あと、高齢者の中にはそもそも何も考え(られ)ていない。という人もいます。この場合は過信ではなく、認知症が疑われます。
自分自身のことを客観的に見ることができない。あるいは事実を認めたくない。それが老いによる弊害だと分かるのは、マドレーヌのようにまだボーダーラインを越えていない人なのです。
荒ぶる高齢者
電車内で席を譲られて「年寄あつかいするな!」とキレている高齢者、「年寄に席を譲れ」とキレている高齢者。コンビニのレジでアルバイト店員にキレている高齢者。スーパーのセルフレジで独りで荒ぶる高齢者。これらの高齢者と免許返納を頑なに拒む高齢者は同じ症状です。常に自分が正しいと思い込んでいるので、間違いを指摘されると言いがかりをつけられた、攻撃されていると感じます。
私見ですが、街を歩いている男性高齢者の60%は、デフォルトで薄く怒っています。だいたいレベル30/100ぐらいでしょうか。スタートがレベル30ですから、沸点に達するのが速いのです。
自分を客観視する
主人公・マドレーヌは、日常生活で出来なくなったことをメモに書いていました。▶入浴 ▶着替 ▶荷物を持つ ▶階段を上がる ▶車の運転
マドレーヌは荒ぶる高齢者達とは違い、自分を客観視することができています。彼女が恐れたのは、ボーダーラインを超えて、そのメモの存在を忘れてしまうことです。それは自分が自分ではなくなるということですから。
自分の尊厳
人は自分の意志で生まれてくるわけではありません。いつ生まれるのか、誰の子として生まれるのか、男性なのか女性なのか、何一つ自分の意志ではありません。生まれて、ある程度の年齢になれば自らの意思で生きますが、思うようにならないのが人生です。
人生で、自分の意志で決められる可能性があることは、結婚・離婚と、人生に幕を引くことだけかも知れません。マドレーヌは自分が自分らしくあるうちに、自らの意思で終わりにしたいと願ったのです。それは自死です、しかし追い込まれての自死ではなく「尊厳死」と言っていいでしょう。
安楽死
尊厳死よりも世間的に知られているのが「安楽死」です。安楽死は、命を終わらせる目的で薬物を投与する「積極的安楽死」、命を終わらせないために投与している薬物の投与を中止する(延命治療をしない)「消極的安楽死」に分けられます。
上の映像は、日本では尊厳死(記事・映像中では安楽死と表現)が認められていないので、スイスに渡って最後を迎えた女性のドキュメンタリーです。映像中、彼女が自分の意志で命を終えるシーンがあります。あたかもラジオのスイッチをオフにするかのようなその行為は、モラルや善悪という観念では図れない、ましてや他人がとやかく言えるようなことではないと分かります。
その映像では尊厳死ではなく「安楽死」という表現を使っています。現在の日本に尊厳死に関する法律(定義が)がないからです。今後、尊厳死に関する法整備が進めば安楽死と尊厳死の境界はもっとはっきりするかも知れません。
「かも知れません」と言うのは、夫婦別姓でさえまともに議論されない現状を見ると、日本の政治家が尊厳死に真っ向から向き合うとは思えないからです。
家族の尊厳
マドレーヌが尊厳死を実行すれば、マドレーヌは納得がいくでしょう。しかし、残される家族はどうでしょうか。映画ではそれぞれの葛藤が描かれています。
息子・ピエールは母を怒鳴りつけ、決意を認めないと言います。人はいつか死ぬと分かってはいても、母親にはできる限り生きていてほしいからです。ただし、それはピエール自身のためにですが。
いざその時には泣きながら震えていたピエールを「いい歳をして」と笑えるでしょうか。
娘・ディアーヌは悩みながらもマドレーヌがマドレーヌらしくあることを望みました。母親が死ぬための薬集めに協力するディアーヌを「ひどい娘だ」と責められるでしょうか。
見守る覚悟を決めたディアーヌは母と娘の最後の時間を過ごします。ワインで乾杯し、笑い合い、一緒にお風呂に入り、娘は老いた母親を抱きしめました。昔、幼い自分を母が抱きしめてくれたように。
家族の尊厳とは、それぞれの思いを理解した上で、最終的には老いた母の尊厳を守ることができたという自負なのではないでしょうか。
リオレの理由
マドレーヌは初恋の人に会いに行き、愛車を手放し、家具を整理し、愛用の小物には一つずつ受け取って欲しい人の名前を書いた付箋を張り付けました。
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