第二十二話 渡り鳥
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寒い日と暖かい日が目まぐるしく入れ替わっている。陽射しは一貫して夏のそれに近いが、気温は乱高下し、半袖で過ごせた日があったかと思えば、翌日には冬物の上着を引っ張り出したりで、毎日が気忙しい。四月半ば。蓬莱公園では、桜に代わってツツジが、人々を呼び寄せ始めている頃だろう。
もっとも、写真の中の桜は、まだ健在だ。部屋のカレンダーに写っているのは、どこかの有名な一本桜。澄み切った青空の下、斑雪の山並みを従えて、満開の偉容を誇っている。寒い地方の桜みたいだから、写真の中だけでなく、実際にも、今頃満開を迎えているかもしれない。
「あじわい暦」 と銘打たれたこのカレンダーは、すぐ近くの丁字路の角にある 「ときわ商店」 でもらった。「ときわ商店」 はアパートの大家だ。毎年、年の瀬が迫ると、アパートの住人や買い物に来た客に、粗品やカレンダーを配っている。店主のこだわりか、懇意の業者がいるのか、くれるのは決まって 「あじわい暦」 だが、このカレンダー、なかなか奥が深くて、真一は気に入っている。メモ欄に二十四節気をはじめ、七十二候、雑節、五節供、月齢、潮回り、暦注に至るまでが事細かく記載され、春夏秋冬しか意識しない一年にも、小さな季節や節目が多くあることを教えてくれる。床屋などで見かける日めくりカレンダーならまだしも、月めくりのタイプで、ここまで凝ったカレンダーは――少なくとも贈答品では――見たことがない。
「あじわい暦」 によれば、今日は二十四節気の 「清明」 の期間に入る。「清明」 を三分割した七十二候なら、「虹始見」 の候。
桜の時期と重なる 「清明」 も、「虹始見」 まで下ってくると、概ね花は終わりだ。アパート周辺の桜も、すでに散ってしまった。花見を楽しめるのは、一般的に言って、初候の 「玄鳥至」 と次候の 「鴻雁北」 くらいだろう。
ところで、「玄鳥至」 も 「鴻雁北」 も、渡り鳥の動向を伝える短文だ。「玄鳥」 はツバメ。「玄」 は 「黒」 だから、「黒い鳥」 で、すなわちツバメとなる。「鴻」 は訓読みで 「ひしくい」 と読み、大型の雁を指す。「鴻雁」 は、大型と小型の雁の総称。
ツバメは暖かくなると日本列島に飛来して、民家の軒下や納屋の中など、わざわざ人気のある所に巣を作る。駅やコンビニなどで、忙しなく巣を行き来している姿を見かけることも多い。昨今は住環境の変化により、嫌われる向きもあるが、昔から縁起の良い鳥として、人々に親しまれてきた。一方、冬鳥の雁は、春の訪れとともに、シベリアなど寒い地方へ帰っていく。ちなみに、ツバメも雁も、昔は常世からやって来て、常世へ帰ると考えられていた。
七十二候によれば、今は夏鳥と冬鳥が入れ替わる時期。
海彼より訪れる鳥と――
海彼へ旅立つ鳥と――
すれ違う渡り鳥の群れも、季節の変わり目の慌しさを物語っている。
玄関の呼び鈴を聞き、読みかけの漫画を放り出して、ベッドから立ち上がった。こたつの上の目覚まし時計は、十一時きっかり。小林は、約束の時間に一分の誤差もなくやってきた。
「ちゃんと眠れました?」
開けたドアの向こうで、逆光を背負った人影が白い歯を見せた。四角い黒縁メガネ、白いシャツの上に黒いカーディガンを羽織り、無造作な短い髪にはワックスのツヤ。最近普及し始めたこの整髪料を、小林は、ジェルみたいに固まらなくていい、と言って愛用している。
「んー、ぼちぼちかな……」
真一は、あくび交じりに答えた。ベッドに入ったのが六時半、目覚めたのが十時半だから、確かに寝足りない。ただ、睡眠に関して、真一はわりと融通が利くほうだ。いたずらに生活のリズムを乱そうとは思わないが、多少の寝不足なら苦にしないし、いつでもどこでも寝たり起きたりが可能。就職先にホテルを選んだのは、こんな体質だったからというのもある。
指先でくるくる車のキーを回していた小林に、トイレに行くと伝えて、先に行かせた。
岩見沢と同じく、小林も岡崎の中学時代の同級生だ。一家でパーラー (昔の喫茶店の一形態) を営んでいて、平日しか休みが取れず、遊び相手に事欠いていた。真一とは、釣りという共通の趣味があったため、打ち解けるのは早かった。小林はつい最近、車を買い替えたばかり。以前は、思わずかけ声が出てしまいそうな重いステアリングの軽自動車に乗っていたが、新しく買った車は、遠出も楽なステーションワゴンだ。今日は、その車のお披露目で、ドライブに行くことになっている。
玄関の鍵をかけ、二階の外廊下を歩きながら、空の様子を窺った。南風が強かった昨日は、陽射しがあっても空が濁っていたが、風が収まった今日は、穏やかで春らしい色を取り戻している。水彩画のような淡い水色に、滲んで消えそうな白い雲。風船でも浮かべたら、似合いそうな空だ。気温も暖かく、絶好のドライブ日和になった。
外廊下の突き当たりから鉄階段を下りていくと、小林の車は、階段のすぐ脇に止まっていた。スポーティーなフォルムの白い車だ。一度、バイト先のコンビニに買い物に来ているので、外観だけは見たことがある。
陽射しにハレーションを放っている屋根を見下ろしつつ、つくづく時代が移り変わるスピードは速いなと思った。真一が中学生だった頃、若者に人気の車といえば、圧倒的にツードアのスポーツカーだった。高校生になると、クロカン四駆ブームが勢いづき、派手にドレスアップしたRVやピックアップトラックを、街でよく見かけるようになった。アメリカの若者の日常が垣間見えるハリウッド映画や、パリ・ダカールラリーで日本車が輝かしい成績を収めたことも、ブームを後押ししていたに違いない。4ドアのハイラックス・サーフや日産テラノが登場したのもこの頃。だが、バブルが弾けて、先行き不透明な時代に入ると、スポーツカーも四駆も、一般の若者には手を出しづらい車になった。四駆ブームはそれでもしばらく続いたが、バブルの余韻が消えていくのに歩調を合わせて下火になっていった。今は目立つことより、使い勝手の良い――街乗りが楽で、週末のレジャーにも使えるような――車が人気を集めている。
「おーすっ」
助手席に岡崎の姿が見えたので、後部座席側に回ってドアを開けた。中に乗り込もうとしたら、シートの奥から手を挙げてくる奴がいた。
「ちわっす。どうっすか、この車。遊びに行くのにぴったりでしょ。みんなでじゃんじゃん乗り回しちゃいましょうよ」
どこかの激安店で買ったような、トライバル柄の白いパーカ。金髪に近い髪色をした小柄な男が、鷹揚に腕を広げている。景気が悪くなると眉毛が細くなるという説があるが、モヤシみたいに吊り上がったこいつの眉も、長引く不況の影響だろうか。おい、と怒鳴った小林の声は、聞こえていない様子。
マサカズも、岡崎の中学時代の仲間。小林のパーラーと同じ通り沿いの花屋で働いている。岡崎に紹介されたとき、真一の顔を知っていると言ってきて驚いた。花の配達でアパートの近くを通りかかって、偶然道を歩いている真一を見かけたらしい。マサカズがこのあたりまで配達に来るのは事実だ。何度か、店のロゴが入った配達車を見たことがある。だが、真一の顔を知っているという言は怪しい。仮に、どこかですれ違ったことがあるにせよ、赤の他人の顔など覚えていないのが普通だろう。真一だって、コンビニに来る客の顔など、いちいち覚えていない。覚えているとしたら常連か、よっぽどインパクトのある客だけだ。最初はうっかり信用してしまったが、マサカズのお調子者の性格を知った今は、場を盛り上げようとして、でまかせを言ったのだと思っている。
マサカズの軽口に適当に合わせたあと、ぐるっと車内を見回した。中古で買ったという車の内装に、目立った傷や汚れは見当たらない。たった今見たばかりのボディーにも、新車とほとんど変わらない光沢があった。どれくらい走っているのかと尋ねたら、一万七千ですね、という回答だった。
「岩見沢はもう乗ったの」
「あいつは土曜の夜にウチに来たんですけど、そのとき国道をちょっと流しました」
工場勤務の岩見沢の休みは暦通り。だから、今日は一緒に来られない。
「はいはいー、みんな聞いてー」
助手席で岡崎が手を挙げている。
「俺さあ、今年水曜ヒマだからー。午前中講義あるけど、出なくても楽勝だからー。遊びに行く予定があったら、遠慮なく誘ってねー」
こいつは去年も、バイト先で同じことを言っていた気がする。実際、平日にもかかわらず、真一たちとよく遊んでいた。
「この前、聞いたよ」
小林にそっけなく返されると、横を向いて小林の肩にポンと手を置く。
「ま、忘れられちゃったら寂しいからね。特に、車買った人に」
岡崎の足は、真一と同じくスクーター。自宅から約十キロの所にある大学が、行動範囲の限界だ。
小林はフロントガラスを見つめたまま、無言でキーを回す。
エンジンが静かにうなり始めて、ぽつりと一言。
「さ、行くか」