ヘラヘラして自分を傷つけてるんじゃないか説
最近、精力的に「書く事」をしている。
傷つく
傷つけられた
傷ついた
この事に対して
傷ついた事を無視する
傷ついた事を見て見ぬフリをする
傷つけられた事を隠す
傷ついた事をなかった事にする
傷ついた事に目をそらす
私にはこうゆう癖がある事に気が付いた。
少し前に一生、手元に置きたい本に出会った。
燃え殻さんのこの本。
この本にこんな燃え殻さんの実体験がある。
後半の「巣ごもり日記」の一部で編集者とのやりとりで
(以下抜粋)
カツアゲをした事もされた事も実体験はないが、
この箇所を読んだ時に
胸の奥をガツッと掴まれれて左右に
ガシガシ揺さぶれる痛さを感じた。
脳からフワフワと色んな記憶の
輪郭が出来はじめる。
「あー無理無理!」と
心が大急ぎで魔法のランプのから出る
フワフワしたモクモクした
記憶の煙を消そうとする。
きっと私の記憶や心の中は
いつまでも認められない、
向き合う事が出来ていない
モヤモヤでいっぱいなんだと
気が付いた。
だから得体のしれない
「不幸せ感」がいつも
心の隅っこにあるのだ。
私は自分が傷ついた事を
自分の心の中でも認められないのだ。
それはやっぱり自分の価値のベースが
他人からの評価だったり、
他人にどんな風に扱われた事で
自分の価値が上下に動くからだ。
まぁまた、
よりによって私は空気が読めすぎる。
きっと人よりも何テンポも先に
色んな空気を拾う。
拾うどころの騒ぎではないくらい拾いまくる。
もちろん無意識なもんだから厄介だ。
だから人が漏れていないと思ってるピり付きも拾う。イラつきも。
自分の価値のベースが他人からの評価だったり
他人からどんな風に扱われたかで
自分の価値が上下に動くものだから
誰かに傷つけられ事は認められない。
人に傷付けられたら、
人に雑に扱われた事として
自分の価値が下がるから人に
傷付けられた事を認めらない。
受け入れる事が出来ない。
自分の価値が下がらないように
必死に頑張っているのだと思う。
完全に頑張り方間違え過ぎて生きてきて
45歳になってしまった。
だから本当に理不尽な態度や、扱い、
相手の勝手な不機嫌なまき散らし
などに対してそれが
自分個人にだけ向けられると、
それを挽回しようとしてる自分が
いる事に最近、気が付いた。
相手の勝手な不機嫌のまき散らしなんて
本来ならば間違ってるのは
相手なのに、
「私がこうしたからかな?」
「私がこう言ったからかな?」
凄い気になるのだ。
こうして文章に書くとバカみたいな話だ。
相手の理不尽な態度や、
扱いや不機嫌のまき散らしが
自分の価値と直結してくるのだから。
そんな事で自分の価値とか
動いてたらダメでしょ。
揺らいだらダメでしょ。
そりゃないでしょ。
無意識に挽回しようしてしまうので
必要以上にニコニコしてしまう。
今、思い出してみるとニコニコ通り越して
ヘラヘラしてるように見える。
健全なコミュニケーションというよりも
ご機嫌伺いの方が近しい。
ご機嫌伺いだなこれはと気が付いたのは
相手が普通の態度だった時に
ホッとした自分がいたから。
結局のところ真相なんて全部わからないのにね。
相手の不機嫌のまき散らしが、
全部私のせいなのか
普通の態度だった事も
私のご機嫌取りが成功した事なのか
真相は何1つわからない。
でも1つ分かった事は、
そんな事と私の価値などという
大きな大事なスケールな事とは
全く別の話と言う事。
ヘラヘラするたびに傷ついてじゃない。
ヘラヘラしてて自分を守ってたつもりが
ヘラヘラして自分を傷つけてた。
自分を認めたり、受け入れたりが
私にとっては難しい。
そんな私が「夢に迷ってタクシーを呼んだ」
を読んで背中を押された。
燃え殻さんのエッセイは
こんなえぐられるような自分の事を、
悲壮感もなく、悲劇ぶる感じもなく
ドラマチック過ぎるわけでもなく、
ただ淡々と書いてるのに
でもすごく温かい。
温かい大きな手で
背中をさすってくれるような文章。
いつも手の届く所に置いてある1冊。
一生、そばに置いておきたい特別な1冊。
もう自分が傷つくヘラヘラはしない。