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「表現」を見つめた日々からの離陸〜わたしは書く〜

  住んでいる地元のライブハウスに、初めて足を踏み入れたのは、二〇〇三年五月のことだった。

 「ラジオで聴いているバンドに会いたい」という長女の願いを叶えるために、ラジオの観覧に同行したりしていたのだけれど、ついに、そのバンドが、地元のライブハウスでライブをするという情報を得て、わたしたち家族は、初めて、地下への階段を降りたのだ。

 ライブハウス。。

 それまで見たこともない空間だった。 

 街並みのなかの、知らずに通り過ぎるような、何の変哲もないビルの地下に、こんなふうに、「音の鳴る場所」が存在していることに、普通に驚いたことを、憶えている。

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 大学時代、わたしは、西荻窪に下宿していた。

 大学からの帰り道に、肉や野菜を買うために寄る、雑多なお店が集まっているスーパーがあった。そのお店は、とても古い建物だったけれど、商店街の中でもちょっと異質な匂いがしたので、わたしは不思議に気に入って、よく寄っていたのだった。

 その一角に、「西荻窪ロフト」という看板が出ている店があった。あまり聞き慣れない名前なので、わたしは、いつも気になって、その看板を、見ていた。

 お肉屋さんや八百屋さんのある一角に並んでいて、

 ーー 一体このお店は何を売っているんだろう。

と、わたしは、肉や野菜を買ってから、よく、その店の前で、ぼんやりと看板を見ていたのだ。

 わたしが買い物をするのは、講義終わりの、夕方でもまだ比較的早い時間だったので、その時間、「西荻窪ロフト」は、いつも、看板があるだけで、閉まっていた。

 ーーきっと、お酒を呑むところなんだろうな。

 そう思いながら、でも、なんだか、気になって見てしまうのだった。

それが、有名なライブハウス「ロフト」グループの、一番最初のお店だったと知ったのは、わたしが、もう、四十六才にもなって、ライブハウスに通い出してからのことだ。

 いつも気になって、「西荻窪ロフト」の前で、ぼんやりしていた十八才のわたしが、それから二十八年も経って、中年になってから、足しげく、ライブハウスに通いつめることになるなんて、想像もつかないことだ。

 人生って面白いな、と思う。

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 「下北沢」に誘われたことから始まった「ライブ三昧の生活」だったけれど、通い詰めたライブハウスでは、本当に、たくさんの「表現者たち」との出逢いがあった。

 「魅力的な表現」をする人たちはたくさん居て、わたしは、人間の「表現力」の「奥深さ」というものを、ライブから、学んだ。

 ひとりひとりの人間が作り出す「表現」に、同じものは、決して無い。ひとりひとりの人間の「顔」が、それぞれに違っていることと、それは同じなのだ。

 どれだけライブを観ても、「音」も「メロディ」も「声」も、同じものは、絶対に無かった。   

 年間二百八十本以上のライブを観る生活を、わたしは、二〇〇四年から二〇〇六年の丸々三年間続けた。その後は、娘たちの活動が忙しくなって、そこまで観ることは出来なくなったけれど、それでも、病気になるまでは、百五十本以上は観ていたと思う。

 年間二百八十本以上観ていた時は、ひと晩に二つや三つのライブハウスのかけもちは普通だった。わたしは、昔から、何でも、やりだしたら徹底的なので、ひとたびハマってしまうと大変なことになるのだ。

 「音楽関係者」でもないのに、これでもか、というほど、わたしは、夜毎、ライブを観続けていた。。

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 地方への「追っかけ」は、二〇〇五年から六年がピークだった。「ハマったバンド」を追いかけていたからだ。

 二〇〇五年十一月。

 前日の大阪から翌日の名古屋のライブツアーを追いかけて、わたしは大阪に一泊し、翌朝、近鉄大阪線に乗って、名古屋に向かっていた。

 「驚くべき出来事」は、その車中で、突然に、わたしに襲って来たのだった。

 電車は、奈良の山中を進んでいた。お天気が良く、冬の近づいた空はきれいに澄んでいて、どこまでも青かった。

 ーー奈良って本当に山だらけなんだなぁ。

 なんて、呑気なことを思いながら、わたしは、ぼんやりと、高い空を眺めていた。

 ところが、ちょうど、電車が「耳成(みみなし)」を過ぎたあたりから、わたしは、急に、不思議な「胸騒ぎ」を感じ始めたのだ。

 それは、どんどん強くなり、やがて、「桜井」に近づくあたりからは、息をするのも苦しくなった。そのうえ、心臓までバクバクして来た。手のひらも汗ばんでいた。

 ーーどうしたのかな。

 不安になって、思わずまわりを見回して見たけれど、電車は空いていて、乗客は、みんな、のんびりと寛いでいる。

 それに、景色も、特別に変わったこともなく、山のなかのまんまだ。

 ふと、

 ーーわたしは何かを感じているのかもしれない。霊的な何かを。。

 そう思った。

 「長谷寺」を過ぎるくらいまで、酷い「息苦しさ」は、ずうっと続いた。

 やがて電車が「室生口大野」を過ぎたころ、その「胸騒ぎ」は、嘘のように収まったのだった。

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 「あなたの病気は、かいなんの地に行けば治ります。」

 その「声」にハッとして、わたしは目を覚ました。

 ーー「かいなんの地?」

 夢だった。

 夢のなかに、ボロボロの茶色の着物を来たおじいさんが居て、わたしに向かって、たしかにそう言ったのだ。。

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 これは、わたしが二十六才の時に見た不思議な夢だ。

 そのころのわたしは、就職して公務員になったのだけれど、「適応障害」を起こして「休職」を余儀なくされ、自宅療養をしていた。

 神経がやられているので、よく「金縛り」にあい、変わった夢もたくさん見せられていた。

 この夢は、そのなかでも、とびっきり変わっていて、記憶に残っている夢なのだ。

 夢のなかのおじいさんは、とてもかん高い声で、大変な早口で、その言葉を言い放ったので、わたしには、「かなん」なのか「かいなん」なのか、良く聴き取れなかった。

 キリスト教系の大学に通ったため、「キリスト教学」が必修だったわたしは、最初のうちは、おじいさんは、聖書にある「カナンの地(約束の地)」のことを言っているのかと思った。

 でも、キリスト教信者でもないわたしが、「カナンの地」を訪れたとしても、特に意味は無いようにも思われた。

 では、「かいなん」という聞き慣れない「言葉」は、一体、何を意味しているのだろうか。。全くわからなかった。

 そのころ、縁があって出会った「祈祷師」のおばあさんに、その話をしたら、

「その夢は、あなたにとって、未来を開くとても大切なメッセージです。やがて意味がわかるときが来るので、それまで忘れないように憶えておいて下さい。」

と、言われたのだ。だから、それからは、ことあるごとに反芻して、忘れないようにした。

 そして、たまに思い出しては、「かいなん」という言葉が意味していることについて、考えてみたりしていた。

 「かいなん」。。

 あるとき、ふと、考えついた。

 ーー「かい」ってもしかしたら「海」のこと?

 わたしは、結婚して姓が変わっているけれど、旧姓には「海」の字がついている。だから、なんとなく、連想したのかもしれない。

 ーー「かいなん」って、「海の南」っていうことなのかな。

 そこまでは、無理やり考えついた。でも、だからといって、どこの「海」の「南」なのかについては、全く見当もつかなかったのだ。。

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 名古屋のライブを観終えて、帰宅したわたしは、さっそく、「胸騒ぎ」を覚えた土地について、いろいろと調べてみた。

 すると、「胸騒ぎ」を覚えた「耳成(みみなし)」から桜井あたりまでの土地は、「琵琶湖」の真南に位置している、という事実に、行き当たった。

 「あっ。」

 わたしは、かつて、ライブハウスで出逢った人から、「琵琶湖」は「うみ」と呼ばれている、というおはなしを聞いたことを、急に思い出した。

 長年の「謎」は、「記憶」の連なりのなかで、一瞬にして、解けた。

 「かいなんの地」とは、「琵琶湖」の「南」の地のことだったのだ。

 わたしは、「琵琶湖の南の土地」に、何か「縁」があるのかもしれない。

 では、「かいなんの地」には、いったい何があるのか。

 わたしは、さらに調べてみた。

 すると、そこには、なんと、

 「大神神社」が鎮座していたのだ。

 大神神社は、いわゆる「ほこら」がなく、三輪山自体が「御神体」となっている、日本最古の神社である。

 ーーそうだったのか。

 わたしは、さらに、腑に落ちたように思った。

 なぜなら、「大神神社」の御神体は、「おおくにぬしのみことさま」だからだ。

 幼い頃から、大きくなったら「おおくにぬしのみことさま」と結婚する、と何故か信じていたり、「おおくにぬしのみことさま」に見つけてもらえるようにと、「朱色のランドセル」を探しまくったり、とても「変な」こだわりを持っていたわたしは、「大神神社」に、「縁」があるに違いないと、すんなりと、納得した。

 「謎」は、少しずつ、解けて来たように思われた。

 「下北沢」に呼ばれて、好きな「声」に導かれて「自分探し」をし、ついには、「自分の約束の地」にまで、連れて来られたのだ、と、わたしは、思った。

 そもそも、わたしは、「旅」なんて、大嫌いだった。乗り物に弱いし、「地図」も苦手で、方向音痴なのだから。。

 それでも、きっと、全部が、「かいなんの地」を探し当てるために、わたしに約束された、「必要なことがら」だったのだろうかと、今さらながらに思われてならなかった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 いつの頃からか、ライブハウスで、本当に良いライブを観るとき、わたしには、バンドの後ろに、とても大きな山が見えるようになった。

 良いライブのとき、「音」は、どんどん上に上がってゆく。その「音」が客席に流れ、聴いている人たちに降り注ぐとき、その「音」は、跳ね返って、更に更に上に登ってゆく。

 そうやって、舞台上のアーティストと、聴いている人たちとのキャッチボールが続いていくうちに、「音」は化けて、やがて、大きな山が、現れる。。

 わたしには、そう見えてしまうのだった。半分は妄想に過ぎないのだろうけれど、見えるのだから、仕方がない。

 それが、何を意味していたのか、やがて、「謎」は、またしても、解ける。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 二〇〇七年二月十一日。

 わたしは、ついに、探し当てた「かいなんの地」と思われる「大神神社」を訪ねた。

 神道信者ではないのだけれど、何故か偶然にも、「建国記念日」に訪ねることになったのだ。

 そのころにハマっていたバンドのツアーを追いかけて、今度は、わたしは、三重県に居た。

 前日の名古屋のライブから追いかけて、名古屋で一泊、翌十日、三重県の松阪まで下ってライブを観、そこで一泊し、翌十一日、今度は近鉄大阪線を、大阪に向かって乗って、「桜井」で降り、JRに乗り換えて、「三輪」まで行った。

 そこから結構歩いて、わたしは、ようやく大神神社に着いた。真冬だけれど、全然寒くなくて、三輪山に登ったときには、お陽さまが燦燦と照っていて、過ごしやすかった。

 一日過ごして、わたしは、本当に、よくよく解かったのだ。

 ーーわたしは、かつてこの地に居たことがある。

ということが。。

 そのくらい、全てが懐かしく、「呼吸」がしやすかった。

 この感想は、全く客観性に欠けるし、非科学的この上もない。

 だけれども、そう感じたのだから、仕方がない。高台の展望台から見た、初めて見るはずの大和三山も、懐かしかったし、国道ゼロ号線と言われている「山の辺の道」を歩いて、「元伊勢」に辿り着いたときに、正面に見えた二上山の景色は、「夢」で、子どもの頃から、何度も「見せられていた景色」と何も変わらなかったのだ。

 「人生の謎が解けた。」と感じた瞬間だった。

 急に、雷が轟きはじめたり、霧雨がすうっと通り過ぎたり、わたしには、起こる全ての出来事が、わたしを歓迎してくれている、と素直に感じられた。

 「祝福」されている、とさえ思えた一日だった。

 「おかえり。おかえり。」

 口々に、そう言われているように感じられたのだ。

 歩きながら、わたしは、泣き笑いをしていた。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「お前はいつまで観ているのだ。」

ライブハウスで、大きな山が見えたライブのときに、わたしは、見えている「山」から、そう告げられたことがあった。

 それが、どんなことを意味していたのか、わたしは、ごく最近になって、やっと気がついた。

 「山」は、わたしにも、「表現」を促していたのだ。

 「書くこと」を思い出したわたしは、晩年にさしかかって、ようやく「離陸」した。だから、これからは、ひたすらに飛び続けるつもりだ。いのちの続く限り、徹底的に。

 わたしは「作家」になりたくて書いているのではないと思う。

 ただ、「自分の人生を表現したい」という、止むに止まれない「衝動」のために、書いているにすぎないのかもしれない。

 こころの奥底から、作為なく、こぼれ落ちて来たものたちをすくって、集めて、文章に紡いで、読んでくださる人たちに届けてゆけたらそれでいい、と思っている。

 わたしの感性を刺激し、「離陸」を助けてくれた、全ての「表現者」たちと、わたしとすれ違ってくれた全ての「人びと」に向けて、

 「ありがとう。」

と、つぶやきながら。。

 







































































































































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