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好きな「声」のルーツ・懐かしい父のうたごえ
生まれたてのときから、わたしは、とても気難しい赤ん坊だったらしい。頑固に、自分のこだわりを主張するので、新米の親たちに、大変苦労をかけたようだ。
たとえば、ミルクの温度。
母は、あまり母乳が出なかったので、わたしは途中からミルク栄養になった。でも、多分、わたしはミルクが嫌いだったのだろう。
ミルクは、きっちり、母乳の温度を維持していないと、プンと顔を背けて、絶対に飲まなかったらしい。
わたしが生まれたのは秋だから、東北の秋はすぐに寒くなる。昔のことだから、暖房は火鉢しか無いのだ。
よって、ミルクはすぐに冷める。
プンと顔を背けたわたしを、心配そうに覗く新米の親たち。。
気の毒だなぁ、と今なら思うけど、生まれたての、頑固なわたしは譲らなかった。親たちは、寒い夜中に、鍋で何度も温め直して、ミルクを飲ませたそうだ。
それから、夜泣き。
あまりに夜通し泣くので、父は、
「職場で居眠りばかりしていたよ。」と、よく言っていた。
そんなわたしだったけど、機嫌が良くなる「アイテム」が、あった。
それは「オルゴールメリー」と「レコード」だ。
その当時は、どちらも、「贅沢」で「高価」なものだったけれど、わたしの機嫌を直すため、更には両親の健康のために、頑張って買ったらしい。
「オルゴールメリーと笑顔のわたし」の、セピア色の写真が残っている。
つまりは、「音楽」なのだった。。
「レコードプレーヤー」なんて、わたしが生まれた頃は、本当に高価だったと思う。でも、両親は、あるとき、ある決まった音楽を聴かせると泣き止むわたしに気づいて、「レコードプレーヤー」の購入を決意した。
「大変だったけどねぇ。でも、レコードをかけると、ピタッと泣き止んで聴いてるから、面白いくらいだったよ。」
と、よく母は話してくれた。
しばらくは良かったのだけれど、そのうち、赤ん坊は成長するし、飽きるのも早いので、やがて、効き目が薄くなってしまった。
またまた困った両親を救った、次の「アイテム」。。それは、なんと、、「父のうた」だった。
わたしの父は、ただの公務員なのだけれど、「声」が良くて、「うた」が上手だった。うわさがうわさを呼び、若い頃の父には、「追っかけ」まで居たらしい。
通勤していると、いつも、数人の女の子たちが、モジモジしながら、後を付いて来ていたのだそうだ。
「全くねぇ。恥ずかしいよね。。」
その頃、同じ駅を利用して、電車で町まで通勤していた母は、そんな父が、ひどく浮ついた人に見えて、「大嫌い」だったそうだ。
ところが、当の父は、かなり昔から、ずーっと「美人」の母に憧れていて、いつか「お話してみたい」と思っていたらしいから、皮肉だ。
やがて父は、ついに、母に「告白」し、母は、不本意ながらも、交際を始めた。すると、がっかりした「追っかけ」の人たちは、しだいに、居なくなっていったという。。
小さな田舎町の、昭和二十年代のおはなしだ。
「付き合ってみたら、意外と真面目な人だったからさ。いいかな、と思って。」
と、母は言っていた。
と、いうわけで、父の「うた」は、田舎町では、「評判」だったのだ。
公務員になる前の、戦後の数年間、父は、「進駐軍」で働いていたことがあった。父の「うた」は、そこで、鍛えられたのだ。
「ジャズ」や、「洋楽」や、「ダンス」、全てが「進駐軍仕込み」だった。
父は、その当時の言い方で言えば、田舎町にはあまり居ない、「ハイカラ」な「モダンボーイ」だったわけだ。
その、評判の、父の「声」は、とても、甘くて、優しくて、艶のある、素敵な「声」だった。
高音になると少しヴィヴラートがかかるところも、セクシーで、魅力的だった。
たとえ赤ん坊でも、「素敵」な「うた」は、分かったのかもしれない。父が歌うと、ぐずるわたしは、泣き止むのだった。
だから、わたしは、母よりも、父に、「うた」を歌ってもらって育った、ということになる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「赤ん坊」でも分かるほど、素敵な「声」の父だったので、わたしは、幼稚園になっても、さらには、小学生になっても、夕方に晩酌をする父の横にちょこんと座っては、
「ねぇ、歌って歌って。」
と、ねだり、いろんな「うた」を歌ってもらっては、うっとりと聞き惚れていた。
父の「おはこ」は、何といっても、「ケ・セラ・セラ」だったけれども、「ナット・キング・コール」も「得意」だったし、「ジャズ」のナンバーだって歌えた。
「ハワイアン」の「うた」も、いろいろ歌ってくれた。それに、「地元の民謡」だって、情感も声量もたっぷりに歌い上げることが出来たのだ。
いろんな「うた」が歌える父の横で、わたしは、たいくつすることがなかった。父のミニリサイタルは、ほとんど毎夕、晩酌と共に開かれていて、わたしは、父を独占し、父は、わたしだけのために、歌ってくれていたのだ。
だから、わたしは、テレビから流れてくる「歌謡曲」には、あんまり興味が持てなかった。
わたしにとっては、父の「声」のほうが断然「素敵」だったし、父の「うた」のほうが、とても、せつなくて、「伝わるもの」だったからだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
けれども、そんなわたしが、四年生から五年生になる頃に、「事件」は起きた。
一九六七年の、多分、四月。。
何気なく見ていた、夕方のテレビで、ある日突然、これまで見たこともないような風情の「五人組」が現れ、演奏をし始めたのだ。
見ていた番組は、「シャボン玉ホリデー」。
そして、出演していた「五人組」は、「ザ・タイガース」である。
彼らは、デビュー曲の「僕のマリー」を、演奏し、歌っていた。。
「何、この人たち、誰?誰?」
衝撃を受けたわたしは、テレビの前に釘付けになっていた。
「今まで見たことのないものを見ている!」と、とっさに、感じた。
「五人組」から受ける印象は、とにかく、新しくて眩しかったのだ。
それまで人気だった、ブルー・コメッツや、ザ・スパイダースなどとは違って、彼らは、まるで少女漫画から抜け出て来たみたいな、中性的な「男の子たち」だった。
なよやかな「少年たち」が、バンド演奏をしながら、「僕のマリー」という、「片想いのうた」を歌っていた。
なんて新しいんだ!
全てが、見たことがない設定だった。
わたしは、まだたった十才だったのに、八才も年上の男の人たちの「少年性」に、一瞬で、すっかりやられてしまっていた。。
「五人組」は、見た目が新しいだけでも衝撃的だったのに、さらにすごかったのは、歌っている「ジュリー」の「声」だった。
それまで「世界一」だと思っていた父の「声」よりも、もっと、「甘く」、もっと「せつなく」、そして、もっと「優しい」ではないか!
しかも、「ジュリー」は、父よりもずっと「美しい」のだった。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ジュリーの「声」に、すっかりハマってしまったわたしは、それからは、晩酌の父に、
「歌って歌って。」
と、ねだらなくなった。
かわいそうな父は、あっという間に、お役御免になった。
わたしは、父の横に座っているのだけれど、「ティーンルック」とか、「セブンティーン」とかいう少女雑誌の「グループ・サウンズ特集」を見ている。
そして、テレビに、「ザ・タイガース」が出演するときは、一心にそちらを観ていて、父に「うた」をねだることは、もう、しなかった。
父は、なんだか、一見、かわいそうだったけれど、もしかしたら、ほっとしていたかもしれない。仕事で疲れて帰って来ているのに、晩酌中に「歌い続ける」のは、結構大変だったとは思うから。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
一九六七年。
この年は、グループ・サウンズ旋風が日本中で吹き荒れた。
わたしは、美しい「ジュリー」が、せつなく甘く「片想い」を歌う「僕のマリー」が、とてもとても好きだったけれど、「僕のマリー」はそこまでヒットしなかった。
でも、続いて出した「シーサイド・バウンド」で、彼らの知名度は大きく飛躍し、さらに続く「モナリザの微笑」で、トップにいち抜けし、「君だけに愛を」で、不動の位置を築いて行った。
その頃のわたしの毎日は、「ジュリー」で始まり、「ジュリー」で終わっていた。
「ジュリー」の「美しさ」と、「素敵な声」はわたしを魅了し続けた。
「僕のマリー」を聴くと、十才のわたしが、「マリー」になりきって、あの歌を聴いていたことを想い出す。。
わたしは、フランス人形を抱いて、朝の雨のなか、独りぼっちで立っている。そして、「恋」をしているのだ!
気付けば、いつの間にか、わたしは、子ども時代を抜け出て、「思春期」の「女の子」に変身していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
グループ・サウンズブームは、わたしを「恋」を意識する「女の子」に変えて、あっという間に過ぎ去った。
でも、そのムーブメントは、わたしに、「声の魔法」を強く植え付けた。
きっとわたしは、生まれたときからの、筋金入りの、「声」フェチなのだろう、とは思う。すでに、遺伝子からして、そうなんだ、というくらいの。。
一番最初に惚れ込んだのが、父の「声」なわけで、その影響は、ずーっと、尾を引いている。
「甘くて」、「優しくて」、「艶」があって、「せつなくて」、ときおり「ヴィヴラート」がかかる、声量十分な、父の「うた声」が、わたしの好きな「声」の根底にあるのだ。
父の「声」は、今思い返しても、「好きだったなぁ。」と思える。
父の「うた」は、優しいけれど、ちょっと「知らんふり」していて、そうして、ちょっぴり「無責任」で、「他人行儀」だった。
父は、「孤独な性格」で、あまり「本音」を言わない人だった。優しいけれど、優しくない、そんな矛盾を孕んだ人だった。
わたしの「矛盾好き」は、もしかしたら、父のことが「好き」だったところから来ているのかもしれない、とも、思う。
結局、わたしは、ただの、「ファザコン」でしかないのかな。
やだ、参ったな。。