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三人の《松竹梅》 横山大観、川合玉堂と川端龍子

先日の『HAPPYな日本美術』山種美術館で、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳による《松竹梅》と横山大観、川合玉堂、川端龍子による《松竹梅》が並んで展示されてました。

栖鳳(1864)、大観(1868)、玉堂(1873)の3人は比較的同世代で同レベルという印象があったのですが、龍子(1885)は年齢も作家としての評価も少し離れてる気がしたので何故?と感じたのですね。(龍子に失礼かもですが…)

それもあって、そういえば龍子記念館に行ってなかったなと思い出し西馬込まで足を運んだのでした。

展示を見たあと、書籍売り場で『青龍社 創立九十年特別展』のカタログを見つけまして、パラパラ捲ってみたら、まはに山種美術館で展示していた《松竹梅》に触れている箇所がありました。

元々、大観は龍子を可愛がっていて、院展における龍子人気もあり「一にも川端、二にも龍子」と信頼していたようなのです。

ところが龍子は院展を脱退、自ら中心となって青龍社を立ち上げてしまう。しかも院展に喧嘩を売るかのように同時期の同会場で「第一回青龍社展」を開催。これには大観も「君、嫌なことするね!」と会場で怒鳴りつけたとか。そりゃ怒りますわ。

「青龍社 創立九十年特別展」カタログより
龍子のイケイケな感じが伝わります

それから20年以上にも渡り二人の関係は断絶。

再会したのは戦争が終わって大観も80歳を越えたあと。大阪へ向かう特急「つばめ」の車内で再会し、大観が「まあ、一杯」と酒を進め和解に至ったと。
あの破顔した笑顔で酒を勧められたら、龍子も頭上がんなかったでしょうね。大観親分カッコいい。

その2年後に大観、玉堂、龍子による「雪月花」展、さらに「松竹梅」展に繋がったようです。

加えて玉堂と龍子の関係も記されてまして、二人とも俳人で俳句を通して交流。第三回「松竹梅」展の直前に玉堂が亡くなると、龍子は遺族からの依頼で葬儀委員長も務めたようなのです。龍子は玉堂とも深い関係だったのですね。

ということで、大観、玉堂、龍子の三人による《松竹梅》の謎が無事解けまして、日本画の巨匠三人ののちょっといい話しでございました。






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