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次男のイエス、三女のイエス―小津安二郎『戸田家の兄妹』


はじめに


 小津安二郎はトーマス・H・インス『シヴィリゼーション』を観て映画監督を志した。『シヴィリゼーション』は、イエス・キリストが登場した初の映画であり、反戦を訴える、公的領域におけるイエスを描いていた。  
 一方、小津は、『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)、『出来ごころ』(1933)、『一人息子』(1936)に見られるように、私的領域におけるイエスとでもいうべき人物を描き続けている。
 本稿では、1941年の『戸田家の兄妹』を取り上げ、私的領域におけるイエスがどのように描かれているのか、見ていきたい。

Ⅰ 家族写真を撮る

 大ブルジョワの戸田家の母(葛城文子)の還暦祝いの日に、長男夫婦(斎藤達夫、三宅邦子)、長女千鶴(吉川満子)、次女夫婦(坪井美子、近衛敏明)がやって来ており、全員で家族写真を撮ることになる。しかし、次男昌二郎(佐分利信)だけは写真撮影の場に現れないため、三女節子(高峰三枝子)が彼を呼びに行く。
 節子は他の家族の代わりに、次男を呼びに行くという自己犠牲を払っている。両親と一緒に暮らしているのは、未婚の次男と三女だけであり、仲もよいゆえ、このような行動をとったのであろう。節子はのっけから、他の家族に代わって兄に愛を示していることがわかる。

Ⅱ 長男の家で女中代わりにこき使われて

 母は還暦について孫から聞かれて、赤ちゃんに還るのだと話す。つまり、母の新生を祝う日に、父は体調の異変を生じ、突然死してしまう。父は、生まれてくる母に代わって、死という自己犠牲を払うことで、母への一方的で絶対的な無償の愛を示しているかのようにも見える。

 葬儀の後、長男が、長女、次男、次女の夫等を呼び、家族会議を開く。亡き父は、現在、経営が危機に瀕している「東亜拓殖」という会社に手形を振り出していた。その支払いのために、邸宅及び書画骨董が売りに出されることが決まる。住まいがなくなった母と三女は、長男の発案で、ひとまず長男の家に行くことになる。長男が亡き父に代わって、二人の面倒を見るという自己犠牲を払うことになる。長男は、これまで母が注いできた無償の愛に報いる形で、母と節子に愛を示すことを求められるのである。

 生家を失った昌二郎は、どのような企業に勤めているのかは明らかにされないが、自分を試したいと天津支店に行くことを決める。旅立つ際、節子が昌二郎の荷造りを手伝う。節子は昌二郎への愛ゆえに、昌二郎に代わって自己犠牲を払うのである。

昌二郎、母、節子

 では、長男は求められた役割を全うしただろうか。答えは否である。長男の家に行くと、母と節子の生活はこれまでとは一変する。長男の妻和子の指図で、母と節子は布団の綿入れをしたりと、まるで女中のように働かされる。長男夫婦は二人に愛を示すどころか、二人に無償の愛を示すことを強いている。和子や女中に代わって家事労働を担い、自己犠牲を払わされる二人は、強制的にイエス役を演じさせられるのである。

節子と和子

 ある日、二人は和子から、お客さんが来るから外出してほしいと厄介払いされる。節子は外出の際、和子から、銀座で、お客さんに出す果物やサンドイッチの注文をして欲しいと頼まれる。和子に代わって自己犠牲を払うことを求められるのだ。しかし、長男の妻は節子に肝心の金を渡さない。節子は、道すがら母に事情を話し、母に金をもらって、頼まれた品を注文する。和子に代わって節子に金を渡すことで、無償の愛を示す母は、私的領域におけるイエスのごとき存在として描かれている。 
 二人が疲れて帰って来ると、まだお客は家におり、二人は居場所がないため、女中のように台所で客が去るのを待つ。節子は女中のエプロンをつけて、女中に代わってお客のために紅茶をいれるという自己犠牲を払いもする。 
 ようやくお客が帰ったと思うと、今度は和子はピアノを弾き始める。節子は母が眠れないからやめてほしいと言う。節子は母への愛ゆえに、母に代わって苦言を呈するという自己犠牲を払うのである。節子は、私的領域におけるイエスといってもよい。ただ、これまでの母が自分に注いでくれた無償の愛に報いているといえるので、一方的で絶対的な愛とはいえない。彼女はイエスのパロディである。 
 節子の言葉に和子は反駁し、二人はもうこれ以上、長男の家で暮らすのは無理だと感じ、長女の家に赴く。今度は長女の千鶴が母の無償の愛に報いる番である。

Ⅲ 長女の家で邪険にされて

 しかし、千鶴もまた、その役割を全うしようという気はなく、千鶴の息子が学校をサボったことを母が見逃したというので、千鶴はお冠である。
 節子は千鶴に働きたいという希望を伝えるが、千鶴からは世間体が悪いからと却下されてしまう。節子が自活できれば、姉の家で暮らしたとしても、肩身の狭い思いをせずに済むのだろうが、自活の道は閉ざされてしまうのだ。

 姉の家にもいられない二人は、お手伝いの女性(飯田蝶子)を連れて、鵠沼にある、おんぼろの別荘に行き、暮らし始める。

Ⅳ 昌二郎の帰還

 父の一周忌、現れないと思われていた昌二郎が天津から帰還する。昌ニ郎は母と節子が鵠沼の別荘で暮らしていると聞いて、長男、長女、そして二人の別荘行きを止めようとしなかった次女の、母に対する冷淡な扱いを責める。そして、母と節子に、自分とともに天津に行くことを提案する。昌二郎は、他の兄弟に代わって母と未婚の節子の面倒をみるという自己犠牲を払おうとする。つまり、これまで母が示してくれた無償の愛に報いようとするのだ。
 昌二郎は、長男や長女に代わって母に愛を示し、自己犠牲を払おうとする点で、私的領域のイエスといってよい存在である。ただ、節子が母に対してしたのと同様、これまで母が自分に注いでくれた無償の愛に報いる形なので、イエスのパロディといえよう。

 昌二郎は、母の還暦の日、記念写真の撮影に遅れて来て、父の死に目には旅行中で間に合わず、父の葬儀には旅行帰りの平服で現れていた。冒頭で、最も親不孝で、無神経に見えていた昌二郎が、最後になって、最も親孝行で心優しいことがわかるという逆説がある。

Ⅴ 節子の提案


 節子は、天津に旅立つにあたって、兄に嫁をもらわないかと提案し、自分の女学校時代の親友「時子」(桑野通子)を兄の妻にすることを決める。ちょうど、次女の綾子が、女学校の友人の和子を兄のもとに嫁がせたように。節子は、昌二郎に代わって、妻を見つけるという自己犠牲を払っている。兄への愛ゆえに自己犠牲を払っているともとれるが、どうもそれだけではなく、保身、つまり自己愛ゆえでもあるように思う。

 親友の時子が兄嫁となれば、天津で兄と同居する節子にとってはいいことずくめなのである。第一に、近い将来、見知らぬ女性が兄嫁となることで生じる軋轢を未然に防ぐことができる。第二に、節子が肩身の狭い思いをすることもない。兄の結婚相手を自らの親友にすることで、節子の天津での生活に対する不安要素は大いに減じるのである。
 昌二郎が最初に天津に行く際ではなく、節子自身が天津に同行する際に結婚を勧めている点でも、節子はなかなかの策士であると感じるのは、私だけだろうか。また、こうも言えるだろう。父の庇護のもと、世間知らずのお嬢さんとして生きてきた節子は、父が亡くなることで、後ろ盾のない生活の厳しさを痛感した。節子は辛い経験をもとに、人生を生きやすくするための自衛策を考えたのだと。父の死は、節子にとって、通過儀礼の役割を果たしているといえる。

Ⅵ 節子と昌二郎の危険な関係

 節子は昌二郎の世話を何くれとなく焼く。二人の関係は、どこか夫婦のようにも見える。節子は昌二郎への「愛」ゆえに自己犠牲を払っているのだが、その愛は、単なる兄弟愛にとどまらない、自分にとって価値のあるものを愛するエロースの匂い、近親相姦の匂いがする。節子は父の死によって、縁談が破談になるが、そのときと、天津行きが決まった後、昌二郎は二度にわたって、「自分がお前の夫を探してやる。自分のようなのはどうだ。」と言っている。昌二郎は節子が自分を男として愛していることを承知の上で、自分のような夫を探そうと言っているととれるのだ。

おわりに

 このように見てくると、本作は父の死後、母が子供たちに示してきた無償の愛に対して、長男、長女、次女は報いようとしないさまを描いている。母同様、家を失った三女と、天津に行った次男は、母のことを慮り、母の愛に報いようとする。節子はピアノの音で眠れない母に代わって、和子に苦言を呈し、昌二郎は長男・長女・次女が母と節子の面倒をみようとしないために、彼らに代わって二人の面倒をみる決心をする。
 母への愛ゆえに兄や姉に代わって自己犠牲を払おうとする昌二郎と、母への愛ゆえに母に代わって苦言を呈する節子は、ともに私的領域におけるイエスのバリエーションといえる。タイトルを戸田家の「兄妹」としたのは、次男と三女に焦点を当てたがゆえの命名であろう。
 和子に買い物を頼まれた節子に、和子に代わってお金を渡す母は、子供が成長してなお、子供に無償の愛を注ぐ、イエスのごとき存在である。
 
 本作で皮肉なのは、私的領域では、兄や姉に代わって母に愛を示し、自己犠牲を払おうとする次男、他者のために献身しようとする昌二郎が、公的領域では、天津支店の社員として、植民地主義という国家レベルのエゴイズムの一翼を担っているという点である。
 そもそも、邸宅が売りに出されたのも、「東亜拓殖」という、植民地主義に乗じて一儲けを試みた会社に、亡き父が関係していたためであった。三女と母を窮地に陥れたきっかけも、希望を見出せるようになったきっかけも、日本の植民地主義と深い関係があるのである。

 また、天津に行くことで母も三女ものびのびと暮らせるという希望ある幕切れととれる一方で、母は慣れない地で客死する可能性もあるだろうし、戦争の行方を知っている我々としては、節子は引き揚げの苦労を味わうかもしれないと思う。家族を題材としながらも、戦争の色が強く垂れこめた作品といえよう。


 長いレビューを最後までお読みいただき、ありがとうございました。小津シリーズ、まだまだ続く予定です。またお付き合いいただけると嬉しいです。



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