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真のチャンピオンは誰か―キング・ヴィダー『チャンプ』


Ⅰ キング・ヴィダー『チャンプ』から、小津安二郎『出来ごころ』へ


 1 父子家庭という設定

 小津安二郎『出来ごころ』(1933)が、1931年のキング・ヴィダーの『チャンプ』にインスパイアされて作られたと知り、鑑賞した。『チャンプ』は、1979年にフランコ・ゼフィレッリによってリメイクされており、こちらの方がみなさんには馴染みがあるかもしれない。

 『チャンプ』は、元ヘビー級チャンピオンの父アンディ(ウォーレス・ビアリー)と息子ディンク(ジャッキー・クーパー)の関係が物語の軸となっている。タイトルは、ディンクがアンディをチャンプと呼ぶところから来ている。アンディの妻リンダは、アンディの素行の悪さに愛想を尽かして出て行ってしまっており、ディンクは母の顔すら覚えていない。父と息子だけの家庭であるという設定が、物語の鍵となっている。この父子の関係には、2つの特徴がある。
 
 第一に、通常の親子関係の逆をいっている。通常なら、親がわが子を何があっても信じ愛そうとする。が、映画では、まだ幼い息子がアルコール中毒かつギャンブル中毒の父親をどこまでも信じ、愛するのだ。アンディが馬主になった馬を、ディンクは「リトル・チャンプ」と名付けてかわいがるが、アンディはギャンブルで金をすってしまい、馬を手放すことになる。それでも、ディンクは父に愛想を尽かすことはない。

 第二に、息子が父のケアをし、父も不十分ながら息子のケアをする。これは母が不在だからでもある。当時は夫が稼ぎ、妻は家事を担当するという家庭が大多数だっただろう。ディンクは酔っ払った父の服を脱がせてやるが、ディンクは母に代わって父の面倒をみるという、自己犠牲を払っているといえよう。 
 そして、妻に代わって自己犠牲を払っているのは、実はアンディも同じである。ディンクのズボンの尻が破れたとき、つぎをあててやっている。しかし、いつの間にか、つぎは取れてしまい、ディンクのショーツは丸見えになっており、そのケアは不十分に終わっているのだが。

 『チャンプ』は、通常の親子関係を逆転させ、かつ母の不在によって不自由な生活を送っている二人の姿を描くことで、観客の感情に訴え、涙を絞らせることを目指しているといえよう。

父アンディと息子ディンク
1979年のリメイク版

 2 『出来ごころ』が継承したもの

 では、『出来ごころ』が『チャンプ』から継承したものは何だろうか。
 『チャンプ』はトーキーであり、『出来ごころ』はサイレントという決定的な違いはあるが、父一人子一人で貧しく暮らしており、息子が酒飲みの父を愛しているところ、そして、父が不十分ながらも母の代わりに子育てをし、息子も父の世話をしているところであろう。

喜八に服を着せる富夫

 『チャンプ』では息子は酔っ払った父の服を脱がせてやるが、『出来ごころ』では息子は寝坊した父に服を着せてやっている。また、ディンクのズボンの尻が破れているエピソードは、富夫の制服の上着の破れを一膳めし屋のおとめが繕ってやっている場面へと受け継がれている。

 酒場の二階で暮らす、チャンプとディンクの関係は、『出来ごころ』の、長屋暮らしの工場労働者・喜八と富夫の描写に生きているのである。 

Ⅱ 真のチャンピオンは誰か

 タイトルの『チャンプ』は、普通に取れば、元ヘビー級チャンピオンで、その座を奪還する父のアンディを指していよう。彼はチャンピオンの座と引き換えに、死という最大の自己犠牲を払う。
 肉体的に卓越しているという意味でのチャンピオンは、アンディであろう。しかし、キング・ヴィダーが『ハレルヤ』(1929)というミュージカル映画も作っていることを考えると、チャンピオンであるのは、アンディだけではないように思える。

 『ハレルヤ』は、Chat GPTによると、こんなあらすじである(観ていなくて、スミマセン)。南部に暮らすアフリカ系アメリカ人で、敬虔なクリスチャンでもある農夫が、都会で女性に誘惑され、ギャンブルで金を全て失う。弟も騒動に巻き込まれ、命を落とす。農夫は、この経験から改心し、牧師になるが、女性と再会し、その誘惑に屈してしまう。最終的に農夫は女性と結婚することになるが、女性は彼以外の男性とも関係を続けており、裏切られてしまう。農夫が、自らの信仰と欲望のはざまで葛藤しながら、最終的には罪からの救済を求めるいう筋立てになっている。

 つまり、『ハレルヤ』は、イエスに倣って生きようともがく男の遍歴が描かれている。

 では、『チャンプ』はどうか。父アンディもまた、ギャンブルで金を失うが、信仰と欲望のはざまで葛藤したり、罪からの救済を求めたりはしていない。それどころか、金欲しさに、ディンクを母リンダに会わせることをオーケーし、リンダの再婚相手から金を受け取ったりしているのだ。一方的で絶対的な愛をアンディに注ぐ、息子のディンクこそが、イエスのごとき存在であり、アンディはむしろイエスを売るユダの役回りといってもよい。イエスのごとき無償の愛を父に注ぎ続けるディンクこそ、精神的に卓越しているチャンピオンといえるのではないか。

 小津がこのように『チャンプ』を受け取ったかどうかは、わからない。けれど、『チャンプ』の息子がイエスのごとき存在であると考えるならば、『出来ごころ』の富夫を、イエスのごとき存在であると捉えることは、よりスムーズになるに違いない。

Ⅲ ご都合主義の結末

 結末で、アンディは現チャンピオンとの試合に勝つものの、試合後に亡くなってしまう。ディンクは大泣きし、ちょうどそこに母のリンダが入って来る。ディンクはそれまでリンダと会っても懐く素振りを見せなかったが、泣きながら「お母さん!」と言って、抱きつく。リンダはディンクを引き取りたいとずっと思っていたので、喜びはひとしおである。

 こうして、ディンクが父を失うことで孤児になることは巧みに回避される。しかし、そんなにわが子がかわいいなら、なぜアルコールとギャンブルがやめられないアンディのもとにディンクを置いて、家を出たのか、謎である。また、リンダの再婚相手もディンクを引き取ることに最初から賛成し、理解を示しており、ご都合主義の感は否めない。アメリカ映画は、大衆に受けるためにこういうご都合主義が多いような気がしていて、いまいち好きになれないのだ。


 最後はグチになりましたが、おしまいまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

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