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2種類の罪悪感~気にすべきものと無視すべきもの
昔から罪悪感を感じやすい性格でした。
たとえば、何か悪い事が起こったときに「自分が悪いのでは」と思ったり、これから何かをやろうとするときに「誰かに迷惑をかけているのではないか」と思うことが多いです。
最近読んだある書籍によれば、罪悪感には2つの種類があって、片方は気にすべきだが、もう片方は無視した方が良いものだと説明されています。
今までの自分になかった視点で興味深く感じたので引用します。
罪悪感にも、本来2つの区分がある。
①本来の罪悪感・・・本来の自分から外れることへの良心の疼き
②支配の罪悪感・・・本来の自分になろうとすることを妨げる無意識の支配
この書籍では、①の罪悪感は気にすべきだとしつつ、②の「無意識の支配の罪悪感」は無視すべきだとしています。
たとえば、
・自分の意思を主張したり、相手の意に反して行動すると、悪いことをしているような気持になる。
・親や上司から理不尽なことをされて、当然の反発をしただけなのに、自分が悪いことをした気持ちになる。
などが②の罪悪感の事例です。
罪悪感を感じる理由は、幼いころから「~すべきだ」「~してはいけない」と教え込まれた義務や禁止に背く事への無意識の抵抗だと、この書籍では述べられています。
つまり、教えにしたがうと「良い子」と認められ、それに逆らうと「悪い子」とみなされ非難が浴びせられる経験が内在化して、大人になって教えを刷り込んだ親などの人間がそばにいなくなっても、刷り込まれた価値観に反する行動をとると、無意識に苦しい気持ちになるということです。
自分の経験に照らしてなるほどと思える内容でした。
何かをやりたいと思ったときに、なんとなく居心地が悪くなったり、心が苦しくなったりすることがあります。
それが原因で自分のやりたいことに積極的になれなかったり、優柔不断さを招いたりすることもしばしばあり、ときには生きづらさを感じる場合もあります。
そのとき感じる苦しさ(罪悪感)から行動にブレーキがかかるのですが、今まではその罪悪感を上記にように区別することなく、「良くないことだからやめておこう」と判断することが多かった気がします。
「良い子」のレッテル
子どものときに「良い子」と認められていた人は、そのレールからはみ出すのが難しい。
自分を「良い子」と認めてくれた人がやるなと言ったことをするのは、その人を裏切ったことになるようで心が苦しい。
よく、「不良のレッテルを貼られた」という言葉を聞きますが、個人的には「良い子のレッテル」というものもあると思います。
「良い子のレッテル」を貼られた人は、周りからそうだと思いこまされた役割や、期待された役割のとおりに動いてしまいがちで、その枠を外れることに居心地の悪さを感じてしまいがちです。
一方的に貼られたレッテルは、押し付けられた価値観は、その内容が「良い子」か「不良」かにかかわらず鬱陶しいものだと思います。
親に申し訳ないとか妻に悪いとか、周りの人の期待と違う行動をとると、息苦しく罪悪感を感じることがありますが、それは誰かに刷り込まれた支配だったのかもしれないし、その罪悪感はむしろ克服することこそが、自立への道なのかもしれません。
自分が感じているのが①の罪悪感か、②の罪悪感か明確に区別するのは難しい場合も多いでしょうけど、2つの区分があると知ることそのものが、心から湧きあがった苦しさにただ流されるだけの状況を回避するヒントになりますし、無意識の支配から自由になるきっかけになると思いました。
罪悪感にまつわる自分自身の具体的経験は書きにくかったこともあり、かなり抽象的な記事になりましたが、最後までご覧いただきありがとうございます。