やってみなければわからない!翻訳・通訳の世界へ飛び込む(タガログ語翻訳・通訳者 林田マリトニさん:その2)
翻訳・通訳者としてのスタートは警察の通訳
翻訳・通訳の業界に入ったのは、神戸に引っ越して、阪神・淡路大震災の後でした。
警察でフィリピン人の通訳者が足りなかったことがきっかけでした。
(フィリピン)領事館から仕事の紹介が来たんです。
そのときは「私にできるわけがない」と思いました。
領事館がなぜ私を紹介したのかわかりませんが、私の日本語の評判が高かったようです。わたしもびっくりしました。
日本語を覚えようとする人が少なかったのではないでしょうか。
兵庫県警には通訳センターがありますよね。
警察の人がやって来て、近所の人に私がどんな人間かを聞いたらしいです。
私たちは引っ越して来たばかりでしたが、住んでいた部屋の管理人も話を聞かれたようです。
日本人の妻なのでビザの問題もありませんでしたが、おそらくそういうことも質問されていたと思います。
あとから「警察がマリトニさんのこと聞きにきたよ」と聞きました。
裁判所の仕事で鍛えられた、複雑な漢字の読み書き
一般的にフィリピン人の通訳は、入管法の違反が多いんです。
オーバーステイですね。1度経験したら、あとは似た案件ばかりでした。
最初は警察からの通訳の依頼で、翻訳はしなくてよかったので、こなすことができました。
それから何年か経って、今度は裁判所から依頼を受けました。
やってみないと、どんな仕事かわからないので、経験してみようと思いました。
裁判所の仕事は、冒頭陳述などの翻訳をしなければならず、すごく苦労しました。
慣れさえすれば似た内容の書類が多いのですが、法律関係の書類で使われる字は難しいですから、読めない字もあれば、意味が全然わからない字もありました。
しかし、そこからの成長はすごく速かったです。
読み書きがとても速くなりました。
裁判までにすべて翻訳しなければいけません。資料がなければ困るのは自分ですから。漢字を調べながら同時に覚えていきました。
だから、小学1年生の漢字からではなく、難しい漢字から覚えていったんです。冒頭陳述で使われるような漢字を学ぶのは頭が痛かったです。
弁護士が作った手書き資料の“解読”に一苦労
また、弁護士からの資料も難しかったです。
だいたい印刷したものをもらうので読みやすいですが、年配の弁護士からの資料は手書きの場合もありました。
手書きの文字は崩れていて読みにくく、夫に手伝ってもらうこともありました。
印刷されていれば調べられますし、時間がかかっても自分で取り組むことができます。
しかし、簡単なはずのひらがな、カタカナも手書きでは全然読めないこともありました。
「に」と「こ」など、字が崩れてどちらかわからないのです。
だから資料が手書きの弁護士と働くのは嫌でした。
裁判の仕事を始めてからの漢字の読み書き能力の成長は大きかったです。
でも、漢字を覚えるのは大変ですよね。
覚えては忘れるの繰り返しでした。
パソコンで翻訳するので、実際に書くのはとても苦手です。パソコンには予測変換があり、選択肢を出してくれるのですごく助かります。
このようにして、何年もかけて字を覚えました。
今でも自信はありませんが、仕事を通じて成長を続けていると感じます。
でも外国人はみんなそうだと思います。
多言語センターFACILとの出会い
阪神淡路大震災の後に、私もメンバーだったフィリピン人コミュニティ「ルスビミンダ 」に他の県から救援物資がたくさん届いたんです。
私たちが救援物資センターのようなものをつくり、私はポートアイランドで物資を仕分けていました。
そのときにカトリック神戸中央教会からいろいろな翻訳をお願いされました。
そのつながりで、FACILの依頼も受けるようになりました。
当時は「FACIL」とは呼ばれていませんでしたね。
しばらくして、コミュニティラジオ局のFMわぃわぃもできました。
みんなで協力して、こういった団体の活動をしてきたんです。
バラエティに富んだ仕事に忙しい毎日
(タガログ語の)翻訳・通訳ができる人材はすごく少ないです。
日本での生活が長い人も多いのに、私の周りには数名しかおらず、「なぜかなぁ」と思います。
例えば家政婦や外資系企業勤務など、仕事で英語が使えると、そもそも日本語を覚える必要がありません。
また、日本人と結婚したフィリピン人女性も多いですが、
覚えようとしても、自己流だとおかしな日本語になってしまいます。
私も、自分の子どもに「ママ、違うでしょ」と言われることがあります。
F:タガログ語以外に、ビサヤ語も堪能ですね。
家族がビサヤにいるので、私が最初に話せるようになったのはビサヤ語です。ビサヤ諸島にはいろいろな言語がありますが、私の言語はイロンゴ語です。
フィリピンの学校教育はタガログ語で行われるので、そのときにタガログ語を身に付けました。
10歳のときマニラに引っ越しましたが、母は亡くなるまでタガログ語を話そうとしませんでした。
絶対に必要なとき以外、家の中ではずっとイロンゴ語でした。
そのおかげで私もイロンゴ語を忘れなかったんです。