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雪、月、花のとき ~永遠の今~

外は雪ね。
あれから三か月。
ずっと返信しなくてごめんなさい。
あの夜のこと、月子はもう、記憶の整理棚にしまいかけてるのかもしれないね。
昔の友だちとの再会なんか、ありがちな偶然。たいした意味なかったなって、笑いながら。
でも、わたしにとっては、かけがえのないできごとだったの。
思い出さない日は一日もなかった。
ながいメールになりそう……

「雪子!」
不意に名前を呼ばれたあのとき、夕方までの大雨がうそのように澄んだ星空のもと、わたしは橋の上で月の出を待っていた。
水かさが増してごうごうと流れる川の音。それにも負けない大きな声。びっくりしてふりむくと、車から顔をのぞかせているのは、月子、あなただった。
卒業以来、音信不通になって十年ぶり。ひとなつこい笑顔はちっともかわらない。
「乗りなさいよ。乗るよね。乗らないとは言わせないぞ」
強引なところもそのままね。わたしは少しためらったけど、押しこまれるように車に乗せられ、駅まで送ってもらうことにした。
車のなかはあたたかかくて、川風にあおられて冷えたからだはすぐにぬくもりに包まれた。わたしはそれだけでも救われた心地がしたの。

車が走り出すと同時に飛んできたのは「いま何してる?」という質問。当然そうくるよね。だけどわたしは「欠勤がちだった会社を今日やめちゃった」と答えて口ごもった。すると月子は「そっか」と流してそれ以上追及せず、話を自分のことに切りかえてくれた。卒業したあくる年に結婚したこと、いまや二児の母、そしてママさんコーラスの練習の帰りだということ。
それにしてもおどろいたな。月子がお花屋さんでアルバイトしてるとはね。
桜と梅の区別もつかないことをみんなに笑われ、「字は書けるもん」なんてひらきなおってた月子がお花屋さん? 
意外そうなわたしの顔をちらっと見ると、月子はニンマリ。
「主人の影響かな。バラ育てたりするやさしい人だからさ」
ちょっとのろけて、真顔にもどった。それから月子は、花の魅力を語ったの。
「花の美しさは、生命力の美しさなんだよ。子猫の足に踏まれても、ぺちゃんこになってしまいそうな道ばたの花。あんなちっぽけな花だって、どんな境遇にもくじけることなく、与えられた命を精いっぱい咲かせて生きてるんだ」
月子は感じたことをなにげなく口にしただけなのかもしれない。
けれどわたしは、このことばが放つ光にぱっと照らされた。まばゆいその光のなかで、風に乗って舞い降りた一枚の花びらを手のひらにしっかり受けとめたのよ。

「寄り道しよう。秘密の場所だよ」
そう言って月子がハンドルを切ると、車はゆるゆると坂をのぼった。
ついたのは、都会のかたすみに残るささやかな雑木林のほとり。
車をとめて、ふたりで暗い遊歩道を抜けると、突然視界がひらけた。
そこには波打つように群れ咲く黄色いつわぶきの花。雨のしずくをたたえたまま、いつしか夜空の主役になった月の光を受け、闇に浮かびあがる花という花!
わたしは我を忘れて立ちつくした。歌声が静かに耳に届くまで。

小さなかごに花をいれ
さびしい人にあげたなら
へやにかおりがみちあふれ
くらい胸もはれるでしょう
愛のわざは小さくても
神の御手がはたらいて
なやみの多い世の人を
あかるくきよくするでしょう

月子がわたしのかたわらで歌ってくれた歌だよ。
「こんどコーラスでガラにもなく讃美歌を歌うんだ」と照れかくしに笑ったね。

……はあ、ここまで打つのに二時間もかかっちゃった。指に力が入らなくて。
雪はまだ降りしきってるよ。
病室の窓ごしによく見える。
病室……てことは、そう、つまり病院にいるわけね。緩和ケア病棟。わかるかな?

あの夜、わたしは確かに月を待っていた。
でもほんとはそうじゃないの。
わたしがほんとに待っていたのは、「まだ生きていなさい」というしるし。
わたしは川に身を投げて死ぬつもりだった。
ガンの告知を受けたのよ。
乳ガンがすでに全身に転移してるって。骨にも肺にもリンパ管にも転移して、余命三か月だって。そう宣告されたの。
ショックだった。こわかった。何日も絶望の淵をさまよった。
会社もやめてあてもなく歩きつづけるわたしを濁流がいざなった。
この黒い水にのまれて消えてしまおう。
わたしは吸い寄せられるように川に近づいた。
すると暗黒のかなたに、おぼろな光がゆらめいた気がしたの。
顔をあげると、ビルの向うから月がのぼりはじめてた。
遠く小さな光にすがって、最後に一度だけ、わたしは奇蹟を願った。
丸い光の輪郭がすっかり見えるまでに救いの手がさしのべられることを。
そうやって何分たったかな。月は一秒ごとに大きくなって、完全な姿を見せる寸前だった。胸のうちで冷たい決心が重くふくらみ、わたしは手すりをつかむ手に力をこめた。
その瞬間なのよ。
「雪子!」って月子がわたしを呼びとめてくれたのは。
それだけじゃない。あなたのことば、月光にゆれるつわぶきの花、歌ってくれた讃美歌……どれもが奇蹟のひとかけらだった。「まだ生きていなさい」というしるしだった。

そしてわたしは三か月を生きた。
髪は抜けおち、胸はえぐられ、腕は枯れ枝よりも細くなった。気管を切開して人工呼吸器つけたから、もう声を出すこともできない。
でもね、悲惨な外見とは裏腹に心はおだやかなんだよ。
わかったから。おんなじだなって。
道ばたの花は、与えられた命を精いっぱい生きて、時がくればあらがうことなく散り、土にかえる。わたしもおんなじなんだなって。
それをすんなり受け入れられたら、人生というつかのまの時間、永遠のなかの今という時間がどれほど貴重なものなのか、すっと心に沁み透るようにわかったの。
そして命あることのありがたさをかみしめながら、一日一日を生きてゆくうち、追憶の日々は、やがて祈りにも似た深く静かなやすらぎをもたらしてくれた。
心に宿ったやすらぎは過去の傷をいやし、人生にあらわれたどんなできことも、どんな人も素直にゆるせる気がして、感謝の気持さえ透明なわき水のようにこんこんとあふれ出てきた。自分の人生がいとおしくなるほどに。
みんな、月子のおかげだよ。

もう、ながくないって自分でよくわかる。
かなうことなら月子の手をにぎって、自分の声で伝えたかった。

ありがとう、月子

ことばをくれて
光をくれて

そして
命をくれて

ありがとう

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