穴の開いた人形だった頃の記憶
うまく思い出せる日と、そうでない日がある。
立ち向かえる時と、そうでない時がある。
わたしにとってトラウマは、暴力そのものよりも「本当は気持ちいいんだろう?」という薄笑いの問いかけに宿っている。
そうです。
気持ちいいです。
暴力を受けて、快感を得ています。
わたしは、犯されて、悦んでいます。
嫌だというのは口先だけで、身体は感じています。
気持ちよくなって、金をもらえて、汚物の中に沈んで、
それが本望です。
もっとしてください。
そう返答するたび、その答えはわたしの本心にとって代わっていった。
客と過ごす時間を平穏無事に過ごすために笑顔を作り、明るい声色を作り、科を作った。距離を詰め、親し気に語りかけ、甲斐甲斐しくふるまい、“仲良く”なろうとした。
それは金を得るためで、殴られないためで、バッグから財布を抜き取られないためで、イチャモンをつけられずに規定の代金を受け取るためで、盗撮やストーキングや掲示板への悪い書き込みを避けるためだった。
わたしも人間だよ。
あなたと同じだよ。
痛いことはイヤだし、脅されたら怖い。
だから酷いことをしないで。
今だけわたしのことを触ってもいいから。
あなたのこともたくさん触るから。
あなたが触ってくれて嬉しいというふうに演じるから。
だから、酷いことをしないで。
そういう複雑なメッセージは、客の支配欲と性的欲求の前には脆く、あちこちバラバラと欠け落ちて「わたしのことを触ってもいい」と「あなたが触ってくれて嬉しい」の部分しか残らない。
わたし達は自分のメッセージがそんな伝わり方をしているなんて考えも及ばない。無視や曲解を受けるなんて思いもしていない。
だって、相手は同じ人間で、話せば分かるはずだから。
自分も、相手と同じ人間なのだから。
でも、客にとってわたしは人間ではなく、金で買った音の出る人形なのだ。一定時間好きにしていい、穴が開いていて、柔らかい、女の形をした人形。
人形が発する迂遠なメッセージを真面目に受け取る必要は客にはない。無視を含めた強権が“客の権利”だからだ。
わたし達は人形になったつもりはないから、メッセージの欠落が相手の誤認なのか、自分が本当にそう望んでいるのか、分からなくなっていく。
本当は自分がそう望んだのかもしれないと、どんどん不安になっていく。
わたしは人間で、客も人間だから、ウマが合う相手もいた。
ものすごく話が盛り上がることもあった。
会話だけで接客時間が終わって、次に指名されてまた会話だけで時間を過ごす客もいた。
触り方がとても手慣れていて、びっくりするくらい優しい客もいた。
妻に先立たれ人肌恋しいのだと、老人ホームに入る寸前までわたしを指名してきた高齢客もいた。
彼らは普通の人間で、だから時々、心を通わすこともあった。
わたしも人間だから。
でも、だからなんだと言うのだろう?
時々、風俗嬢や元風俗嬢達は言う。
「いいお客さんもいた」
「酷いふるまいをするお客さんばかりではなかった」
わたしも思う。
いいお客さんもいた。
でも、だからなんだと言うのだろう?
彼らもみんな、等しく、金で女の身体を買った人身売買の当事者だ。
優しいとか、顔がいいとか、金払いがいいとか、清潔だとか、爪を綺麗に整えて来てくれたとか、高価な差し入れをしてくれたとか、関係ないのだ。
性処理のために人間を買った時点で、みんな同じだ。人権を毀損し、尊厳を土足で踏みにじっている。
でもわたし達は、そう易々と、自分に起きた現実に耐えられない。
だから、あのお客さんはいいひとだった。いい出会いもあった。寂しさに寄り添った。励まされたり、趣味を共有したり、笑い合ったりした、と言う。
自分に起きたことは、人権の毀損などではない、尊厳の蹂躙などではない、レイプではない、と言う。
自分の身に起きたことが、そんな恐ろしい、つらい、振り返ることも困難な被害なんかであるはずがないと、思おうとする。
イヤなこともあったけど、わたしにはいいお客さんもいたし、稼いだお金で楽しく暮らしもした。あれは、そんなに悪いことではなかった。そう、信じようとする。
そうでもしなければ、グチャグチャになってしまう。
今こうしてキーボードを叩く自分の手を切り落として、切り刻んでしまいたくなる。かつて客達の身体を撫でまわしてきた自分の手を。自分を買った男と指を絡めてつないだ手を。
手だけではなく自分の全部を。
自分のもとに来たお客さんは、イヤなヤツもいたけどいいひともいて、彼らとわたしは笑顔で会話をした。
彼らは優しく、部屋が寒くないかとエアコンを調整してくれたり、チップをくれたり、膣に指を入れながら、痛くない?と、気にしてくれた。
そういう“いい思い”をしたのだから、時々起きたイヤな出来事は仕方なかったのだと、自分に言い聞かせようとする。
刺激に対して起きた生理的な反応を、自分もそれを喜んで受け容れたからだと、説き伏せようとする。
「本当は気持ちいいんだろう?」
自分を犯しながらそう問いかけてくる相手に向かって「はい、気持ちいいです」と答え続けた屈辱に、まっすぐ対峙できる日は少ない。
忘れていないと、生きられない。
わたしが今生きる身体は過去と不可分だ。
小さな田舎町で雪の日に生まれたわたしも、
お絵描きが好きで空想家だったわたしも、
英語の授業が好きだったわたしも、
希望を抱いて東京にやって来たわたしも、
客という名の男にのしかかられてじっと耐えていたわたしも、
なにもかも捨てて生活保護にたどり着いたわたしも、
今ここにいるわたしと、全部つながっている。
自分の人生にそんな恐ろしいことが起きたなんて、嘘だと思いたい。
忘れていなければ生きていけない。
そんなことはなかったのだと言わなければ、生きていけない。
いつか忘れられる日が来るんだろうか。
分からない。