世界平和は家庭から
3.26。
一粒万倍、天赦日、寅年の寅の日、3つの吉日が重なった日に男の子が産まれて、家族が5人になった。時間は秒速で過ぎ去る。振り返れば次男の麟も2歳半、上の海周は9歳。
頭が時間のスピードに整理がつかないのは、はじめからだけれども。子供や妻とのそれぞれの思い出の時間が累積していく中で、こうしてまた分母が増えた。名前は太尊(たいそん)
家族が5人になったところで、家族に対する感覚が変化した、住む環境が変化した。
帰る家の質感が変化した。それは、僕がそもそも5人家族の家庭に育ったからかもしれないし、目を離せない幼子が2人になったからかもしれないが、とにかく変化を感じる。
おチビが増えると、かわいいが増える、同時にたぶん、ケアすべき心のひだは実際の家族の人数よりもずっと多くなるだろう、長男のキモチ、次男のキモチ、妻のキモチ、それぞれの、それぞれに対するキモチ。
こんな風に家族が増えると家庭内の人物相関図も大幅に変更を余儀なくされる、それでなくても、僕らがこの家に住み出してまだ4年ほどなのだ、4年の間に家族は離婚→1人減って、再婚→妻+養子縁組息子3人→出産4人。2年を経てもう1人出産。〆て5人なり。
僕のとろくさい頭はことの初めからキャパオーバーであり、最初にキャパオーバーしてからオーバーフローしていく現実の横溢にむしろ快感を伴うドライブ感を感じてすらいる。
こう見えて一応安定というやつを追い求めているのだが、不思議と状況は複雑化していく、けれどもそれは複雑化ではなくただ複数化しているだけで、問題の複数化は、状況の複雑化とはならないような気もしている。
5人になってしっかりすることもあるのかもしれない。
家族が一つの単位に感じられる、俺が俺たちになること、僕という存在が子供たちの成長と複数化する課題や取り組みと取っ組み合ってる間にどうでもよいものになっていくにつれて、自我の消滅に抵抗する自我というものもまたムクムクと立ち上がってくるものだ、それが家族に見せたい父の背中というささやかなプライドなのかもしれない。
本を読み体を鍛え、また文章や絵を描きたい、また試合に出たい。吸って溜めて吐く。自分の音色で。
妻もまた、そういった気持ちを蓄えておそらく日々横で呼吸してるだろう、互いに、そのように消え去っていくことを許さない自我というものを持ち続けて日々を編む、そういった気持ちはきっと、子供たちにも伝わってるようにも思う。それは子供たちの安定に少しの劇薬を含ませることになるだろうと思う、良いことかどうかはわからない。
そうだ、俺にも妻にもまだ未練がある、子供に全てを賭けてお釣りを頂こうなんていう勘定ではない。自分自身をまだ、伸ばしたりこねあげたりしたいんだ。俺は息子の麟から学ぶ、自分を満たし、次に皆んなで笑顔になりたい、この厳格な順序に生の様式の美を感じる。
ゆりかごの中の太尊を見つめると、自分にとっての最初の子である麟の時とは少し違った観点で見つめていることを感じる、その視線に全てを注ぐことはできず、常に脇目に麟と海周を観ている、客観視するということ、1人に愛情を注ぎつつ成員の総幸福量を常に計測している自分がいる。このこと自体が自分にとって新しい。このように人を見つめたことはないような気がする。
守るべき大切で、か弱くて、寝返り一つに死の危険が散らつく幼子がいる一方で頑丈になってきた身体をもつ麟や海周にも、この時期だからこその心の柔らかさもまたある、今は誰の何をケアすべきか、僕の頭はそんなことで日々いっぱいになってる。
そんなタイミングで麟が怪我をしてしまった、ガラスを踏み足の裏を深く切ってしまった、血まみれで患部を握り締めながら病院にかけつけて5針縫ってもらった。僕はかなり反省した、自分も同様かそれ以上に傷ついた、麟は半日後にはもう笑顔だったけれど、僕も妻も2日ほどその健気な息子の姿に涙した、親子は何か神経的なものでペアリングしている、Bluetoothで繋がるスマホ同士のように、麟の足の裏の痛みが俺や妻に、痛いの痛いの飛んでいけしたみたいに、超リアルに飛んでくる。。麟が歩けば心が痛い。寝る前には2人胃が痛んだ。
無邪気なシヴァ神のような存在である麟はその両親の表情を見て、面白がり、こっちの顔を満面の笑顔で見つめながら、ジャンプして自分の足裏にわざとらしくダメージを与える。やめてえええっというとシシシって笑う。きっと彼が感じるのは、自分が誰かにペアリングしていることの実感なのだろう、自分の身体は複数の誰かを生きているという実感を感じてる。
慈悲の心は、自分の内に空を抱き、その空っぽな胸いっぱいに誰かの苦しみや痛みを吸い込んでしまう、そしてその誰かの痛みや苦しみを、ひとまとめに慈しんでやろうという魂胆に違いない。それは反転してもちろん、誰かの喜びもまた同様に自分の胸の内に吸い込んで祝い、喜んでやろうという気持ちにさせるだろう。
「世界平和は家庭から」知り合いがそう言っていたのを当時の自分は軽く聞いていたのだけど、今その言葉が実感を伴って僕に刺さる。我が子との間のようにペアリングした神経で他者を憂い、他者を祝う心持ちが複数化し、グルーヴしていくようでなければ世界平和なんてきっと不可能なのだ。
それを麟に学ぶ、そして麟から学んだこの心持ちを僕はまず海周に向かって実践するだろう。それでも足りない何かを海周に残してしまうかもしれない、海周には海周の掴んで離すことのできない物語がきっとあるはずだ、正直な気持ちでしか人と向き合えない僕だけど、だからこそ海周との関係こそが世界平和とつながっていると考えている。世界平和にとって絶対に必要な感覚は誰かの子を愛するということだ。それは即誰かを愛することに繋がる。そのように振る舞うこととは違う、真心で向き合うためにこそ僕はもう一度、世界や人生を一巡しなくてはならないような気がしている。
我が子を愛するのはたやすい、それは動物的な感情だ、けれども人間の特別なところは何かが過剰であること、酔っ払ってること、狂ってることだ、動物学的な人間と他の動物との差異は、ロマンチストに酔いしれることができるということだ、偽善に狂えるということだ、他の動物の特定の活動を模倣できることだ、つまり自分を無しにして他の生物活動に自分を入れ替えることができるということだ。
人類学を振り返れば未開とされる民族のかなり多くが、父親の曖昧性というものを文化的にもち、それによって我が子を、みんなの子という感覚で育てることを可能にしている、この父親の曖昧性という機能は実はものすごいポテンシャルを持っている、民族、社会そのものの子として、子供に関わること、そういった社会ではシングルマザーは存在しなくなる、第二次世界大戦のエースパイロットたちによってフリーセックスは生まれた、フリーセックスによって父親の曖昧性を介入させることにって戦没したパイロットの子供たちを他のパイロットの家族が受け入れていく。つまり、どの子も我が子かもしれないと考えることはとても大切なのだ。
快楽は転移の中にある、人は正しくは自分の身体とすらうまくつながっていない、まず第一の人間の快楽の扉は自分の身体に繋がるという経験から始まるだろう、その第一の扉はきっと親の愛情によって開かれる、親による共感作用、麟が実感し、それを遊びへと昇華させてみせた親とのペアリングの歓び。このペアリング体験があって初めて自分の身体にもペアリングできる。子にとっては自分の身体よりも親の身体の方が近いんじゃないか。そして親との愛情関係、抱っこ、おんぶ、遊び、反応、が子供にとっての世界への第一歩になるに違いない。それはつまり転移、自分が移動する感覚、自分というものが親とフィードバックする感覚、行き交う情動や行動。それら(親という)他者との関係を通じて自分の身体との関係は築かれる。
そう考えれば家族という閉鎖回路は、世界に等しい様々なネットワークを内包するに違いない、転移は様々な様相でつながり、それが楽をうみ、また苦を生むこともあるだろう。つながりがうまくいかないことの苦もまた同時にあって、それらに対する感情的なやりくりは全て対<世界人類=理想の社会>に対する取り組みに繋がる。
僕たちは驚くほど身近な人間を理解していないし、つながっていない、なにしろ自分の身体とすらうまくつながっていない、肝臓の気持ちになれず酒を飲み過ぎたりする、水分を適切に摂取することすら難しい。
僕がはなっからキャパオーバーしていて、そのオーバーフローしていく現実に置いてけぼりを食らっている感覚は決して特別なものではない、そもそもきっとみんながそうなのだ、麟ですら自分の身体に巻き起こる様々なオーバーフローに追随することはできていないだろう、だからこそ、親を利用し、僕は子を利用し、フィードバック回路を築きあげなくてはいけない、繋がること、自分が移動する感覚を学ぶこと。人生を悦び、他者を悦ぶために。
そして実はこの文章を書くという行為も、移動という快楽をもつ。
ここに書いたものごは現実の僕の様相や家族の雰囲気とは程遠いかもしれない、しかしこんなふうに再構成すること、移動し物語ること。仮定的なものであれ構築して説明を試みること、日本語を借用し、タブレットとキーボードを借用し、説明しようとすること、するとそこには移動がある、自分の身体にペアリングするように、麟の足裏の痛みを実感するようにしてこの言葉の構成をドライブすることそのものに成る時、麟が親のしかっめつらを見つめつつジャンプして足の裏を攻める時に感じられるペアリングの快楽を感じられるだろう。
家族は世界や読書や作文が教えてくれたことをまた別の角度からより肉体的に教えてくれる、学びの場であるからこそ成長の契機に溢れるからこそ興味は尽きない、神経的なつながりのネットワークを我が子を通じて世界や理想の社会へと拡張すること、妻や子供たちとの人間関係をあらゆる手段を使ってサバイブすることは複数で生きる人間の世界がこの地球でサバイブしていく様式を模索することに繋がるはずだ。