昌平坂学問所
江戸幕府直轄の学問所
〈目次〉
1.官僚役人の養成学校
2.参考: 民衆教化と教育
1.官僚役人の養成学校
江戸は旗本・御家人のほかに、大名も藩邸を構え、藩士が生活していた。また、幕府や藩に登用されることを期待して、多くの学者も集まっていた。そのため江戸には、読み書きを指南する手習塾(てならいじゅく)から高度な学問を教授するし塾まで、多様なレベルの塾が解説されるに至った。
そのなかで江戸幕府直轄の学門所として寛政(かんせい)9年に開設されたのが湯島(文京区)の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)である。
昌平坂学問所のルーツは、初代将軍家康に召し抱えられた儒者、林羅山(はやしらざん)の私塾である。私塾には孔子を祀る(まつる)聖堂も建てられていた。5代将軍綱吉の時代には私塾、聖堂ともに、湯島聖堂となり、11代家斉の時代に江戸幕府直轄の昌平坂学問所となったのである。
昌平坂学問所は主に旗本・御家人を対象とし、政治を担う官僚育成と武士としての気質を育てることを目的とした。また、武士の学問奨励策として、現在の試験にあたる学問吟味(がくもんぎんみ)が行われた。
これは、四書五経(ししょごきょう)などの一節をもとに、内容の解釈や使用語句の説明、考察などを行う筆記試験で、好成績を納めた者は褒章(ほうしょう)として役職への登用や昇進が与えられた。学問吟味は、出身出世を望む下級武士のチャンスの場であった。
2.参考: 民衆教化と教育
8代吉宗(よしむね)は学問を政治の手段として利用した。吉宗は、教化活動(権力的な管理活動のこと)のひとつとして、湯島講堂などでの講釈(講談のこと)を江戸町民にも解放した。この講釈は、その後の江戸時代を通じて行われた。
江戸後期になって学問はいっそう盛んになるが、全国的に治安悪化や民心の動揺が大きくなると、より踏み込んだ強化政策がとられるようになった。
その代表が寛政2年(1790年)に出された「異学の禁」である。この「異学の禁」は一般に思想や学問に対する政治統制と評されるが、世間一般に禁じたわけではなく、あくまで林家の私塾(のちの昌平坂学問所)内だけである。
「異学の禁」の目的は、江戸町人や、全国の民衆までを視野に入れた強化政策であり、「朱子学」という統一の道徳規範をもって人生形成の基盤とすることにあった。その先の学習は、個々人の適切に応じた多様な専門知識・技術の習得を奨励していたのである。
参照文献: 「江戸時代のすべてがわかる本(ナツメ社)」
以上
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