形にこだわらない
どんな人にも「こだわり」というものがあると思うし、それがあるからその人らしいのかもしれませんね。
逆に「こだわらない」ということも1つのこだわりかもしれなくて、
こだわるから → 良い/悪い
こだわらないから → 良い/悪い
とは一概にいえなく、どちらもあっていい、というところに行き着く気がします。
認識
認識というのは自分の「捉え方」
物事に接したときの、その「受け止め方」のことだろうと思いますが、以前、Facebook の友達に言われたことは・・
「見解を加えるな」(もしくは「判断するな」)
ということ。
もちろん、そういう命令口調で言われたわけではなく、また正確には何と言われたのかよく覚えていないのですが「そのようなこと」を言われました。
彼は宗教とか哲学とかの話に詳しい人なのですが、どこかの僧侶が言った話だったように記憶していますが、忘れました。さっきネットで調べてみたのですが、出てきません。(思い違いか??)
おそらく何かひとまとまりのフレーズだったように思います。
自分のクセなのか、そういうものなのかは分かりませんが、見るもの聞くものに対して常に自分の「見解」を持とうとしています。
あるいは、見解を述べています。
「こういうことがあるけど、自分はこう思う」
これが見解だと思うのですが、それをするな、ということなんですよね。
むずかしい・・
そう、彼はそういう難しい禅問答のようなことを投げかけてくる人なのです。きっと彼にとってはさほど難しいことではないのかもしれませんが、自分にとっては非常に難しいことです。
ありのままを見る・受け入れる
先の記事で「ポジティブ」について書きましたが、その一つの意味として「肯定」がありました。
肯定とは、外から入ってきた情報や、出会った出来事に対して「そのまま受け入れる」ということですね。
つまり「〇〇だから自分は支持する/しない」という判断をせずに受け入れるということだろうと思います。
それが「肯定」であり「ポジティブ」
もし「〇〇だから支持する → だから受け入れる」というのは、すでに何らかの判断や見解を加えていることになり、ありのままを受け入れたことにならないということなのです。
前述の彼は、おそらくそのようなことを僕に対して言いたかったのかな?という気がしています。
むずかしい・・
まとめ
「形にこだわらない」という話になったかどうか、分かりませんが。
自分のなかに持っているなんらかの「形」や「あるべき姿」や「理想」のようなもの「特定の物事に対する特定の見方」などを一旦、横において、目の前にあるものを「ありのまま受け止める・受け入れる」ということから、何かが始まるのではないか?という話でした。