「それは無用か」という超芸術の話。
こんばんは。
いかがお過ごしですか。
表現の世界に足を踏み入れた、福です。
この前のゼミで
「私が辞めたってこのゼミは続くじゃん」
って先輩が話してた。
じゃあ私は無用なんじゃないかって。
そうだな、じゃあこの話を書こっかな。
【無用の長物】のおはなし。
どこへもいけないドア
役に立たないもの、と聞いて何を思い浮かべるだろう。
サイン、コサインとか?
(数学の先生とよく喧嘩したなぁ)
勉強本についてくるCD?
(ぼくは使わないで捨ててしまう派だ)
社会学?
(そんなこと言わないでよ)
でもね
世の中にはもっと役に立たないものがある。
それが、これ。
先のないドア。
開けたって、何もない。
あるいはもう開けられない、そんなドア。
ぜんぜん役に立たないでしょ。
他にも、先のない階段や、セメントで塞がれた門などなど。これら無用なのに残された建造物を取り上げて芸術の世界に昇華したのが赤瀬川原平という男。彼は路上を探索(フィールドワーク)するなかで都市をユーモラスに再発見していった。
超芸術トマソン
例えばこれ。赤瀬川は「純粋階段」とのちに名付けられるこの階段を「発見」した。使いみちのない、純粋な階段。
建築物に並んでいるが、なんの用もなく存在している。壊れた手すりも部分補修がされている、のに誰もなんの目的でこれがあるのかわかっていない。
意味ありげで無用なものたち。
こうしたものたちの総称として作られた言葉が「超芸術トマソン」である。
つまりは「無用な建造物」がなぜか保存されていることに芸術性を感じたってこと。そして「無用な建造物」のことを芸術のジャンルとして「超芸術トマソン」と名付けたのが赤瀬川だ。
この視点で街を歩くとおもしろい。ふと「超芸術トマソン」と出会うことがある。目まぐるしく都市開発が進むなかでふと残されてしまったドアや階段。それを愛でるってのがいいなぁ。
それは無用か
無用。役に立たないということ。使い道がないということ。
無用かどうか。この問いは「超芸術トマソン」に対して向けられる視線だろう。「純粋階段」は無用か。おそらく「超芸術トマソン」を知らない人から見ればつまらなく無用な存在だろう。だが赤瀬川の目にはおもしろく映った。
あるいは芸術すらも「役に立たない」と捨てられることもある。僕が数学の教科書を捨てたように、社会は芸術を無用と見なしている。けれど人類がモナリザを捨てていない以上、芸術は完全に無用ではないんだ。
あなたは無用か
僕がスーパーの早朝アルバイトを辞めたってそりゃ別府に野菜は届けられるし、総理大臣が死んだって代わりはいくらでもいる。
でもそれがどうしたというのだ。
人間はみな無用なんだ。
自分など何者でもないんだと自覚したほうが美しいよ。
でもね、完全には無用じゃない。
だからこそ「無用の長物」を愛おしく思えるような気がしているんだ。
モノのくせに人間味を放つ、「無用の長物」は可愛げで愛おしいんだ。
この世界の「超芸術トマソン」がすべて排除されるような、均質的でモノクロな社会がやってきたとき、それは人間が人間味を捨てたことを意味しないか。
人間味は無用か。
ほんとうに、それでいいんか。
あなたはいらないのか。
ほんとうに、いらないのか。
・・・。
役に立たない、けれど
社会の役には立ってない、けどユニークで、ちょっとクスッと笑える。日常では誰の気にも止められない。けど見える人には確かにはっきりと受け止められる。
あぁいいね、そんな大人になりたいな。
以上、超芸術トマソンのお話でした。
おやすみなさい。
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