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飲み会受注で生きてた営業が、恋人からの一言でMBA取得→起業した話

こんにちは! EXest株式会社・代表の中林幸宏(なかばやし・ゆきひろ)です。

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弊社は、出会えなかった人と人とをつなぎ、WOWであふれた世界を作るため、さまざまなサービスを提供しています。

・・・なんて書くと、めちゃくちゃ高尚なことを考えている人っぽいのですが(笑)。

学生時代の僕は、まさに「堕落した大学生」そのものでした。大学には週1回行けばいいほうで、毎日毎日、サークルのサッカーや友人とのコミュニケーション(?)に明け暮れている毎日。

一種のミーハー心で入社したテレビ局では、案件獲得の必殺技=飲み会。いわゆる「飲み会受注」の世界で生きる、名もなき営業マンの一人でした。

弊社で働いてくれるインターンの学生たちが「将来は、地元の地方創生にかかわりたい」インターンでマーケティングを学びたい」なんて夢を語るのを聞くと、心から「えらいな……」と感心してしまうほどです(笑)。

きょうは、そんな僕が、スタートアップ企業を立ち上げるまでの経緯をお話しします。

「何か新しいことを始めたいけど、自分にはそれらしい経歴もない😮‍💨」

「やっぱりMBAを取得してスタートアップの代表になるような人って、学生時代からすごい経歴なんでしょ?🤔」

そんなふうに人生の一歩が踏み出せない方の希望になるようなnoteになればいいな、と思いながら、この記事を書きました。ぜひ、最後までお読みいただければ嬉しいです。

テレビ業界に入った理由は、「エントリーシートを書くのが面倒だったから」

僕は自らのキャリアを、広島テレビ放送株式会社の営業マンとしてスタートさせました。

就職活動はテレビ局に絞って受けていました。

理由は単純、エントリーシートを書くのが面倒くさかったから。

就活をなさった経験のある方ならご存じだと思いますが、エントリーシートを書くのって、大変じゃないですか(笑)。同じような内容を何度も書き直すぐらいなら、最初に書いたものを使い回そうと思ったんです。

最初に受けた企業が偶然テレビ局だったので、そのエントリーシートを流用できる企業を受けたところ、拾ってもらったのが広島テレビだった……というわけです。

(といっても、よくわからない地域に行くのは嫌だなーと身勝手に思っていたので、結局、日本テレビと地元の広島のテレビしか受けなかったのですが)

今から考えても、なぜ自分が拾ってもらえたのかは、よく分からない……。もう一回同じ面接をやったら、今度は落とされるかもしれません(笑)。ラッキーでした。

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さて、広島テレビの大阪支社、営業部に配属された僕。案件獲得の「必殺技」はなんといっても飲み会でした。接待の席で人間関係を築き、それを仕事につなげていたんです。

「昨日一緒に飲んだから」「仲が良いから」

そんな理由で発注をいただく、いわゆる「オーソドックスな営業マン」として、職業人生を送っていました。

僕は、この営業スタイルがすごく好きで、なおかつ、得意でした。

学生時代から「コミュ力モンスター」なんて冗談交じりに言われるほど人と打ち解けるのが得意だった僕にとって、この営業スタイルは本当に性に合っていたんですよね。

同期のなかでも「優秀」な人間として、重宝されていた……と思います!!(妄想)。

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ところが、そんな順風満帆な日々にも変化が訪れます。

順調に大阪支部で成績を上げていた僕でしたが、入社時に配属してもらった希望のスポーツ部へ戻ることは叶わず。広島どころか、さらに離れた東京への異動を命じられました。

そこでぶつかった思わぬ壁が……大阪と東京の文化の違い。

なんと、得意の「飲み会受注」が全く通用しなくなってしまったのです。

営業先の方に「飲みに行きましょう」と声をかけても「仕事もしていないのに、なぜ飲みに行く必要があるんですか?」と冷たくあしらわれてしまう。

自分が身につけてきた、唯一といってもいい武器が全く評価されない場所。

思うように営業を進められない状況に、僕は少し、焦りを覚えていました。

当時の彼女の一言で、人生が大きく変わり出した

そんなとき、当時付き合っていた彼女と雑談をしていたとき、こんな言葉をかけられたんです。

「私、あなたと結婚することになっても、あなたの故郷=広島に引っ越すのは無理」と。

彼女は新潟出身で、今は東京勤めの正社員。

実家も職場も何もかも捨てて、縁もゆかりもない場所に引っ越すのは、さすがに無理がある……というのは、僕も理解ができました。

でも、やっぱりショックで。「え、でも広島テレビだし、いつか広島=本社に帰るよ?」としか返事ができませんでした。

彼女はさらに続けました。

「だから、MBAでも取って、転職したら?」

MBA。MBA……? NBA? バスケ?

一介のテレビ局営業である僕には、何のことだか全く分からず。

ビジネスや経営を学ぶ大学院である「MBA」についても、ほぼ全く知識がありませんでした。

いやいや、テレビ局の一介の営業パーソンが、MBA?
そんな人、周囲で聞いたことないぞ……。

「そうだね」なんて適当に流しつつ、そのときはひとまず会話を終えました。

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ところが、その日の夕方、何気なく手に取った日経新聞の広告に「早稲田大学ビジネススクール 秋入学募集」の文字があったのです。1年、もしくは2年通うことで、MBAが取得できるのだとか。

「MBAって、これか!」

知らず僕は、入学案内に目が吸い寄せられていました。

その時点で、エントリーシートの締め切りまであと2週間。

「とりあえず、練習でやってみるか」という程度の軽い気持ちで、本屋に行き、早稲田大学ビジネススクールの教授の皆さんが出している『MBA単語集』とやらを購入。

勢いだけを武器に、今考えればだいぶフワッとした内容のエントリーシートを提出しました。

ところが、思いがけずエントリーシートが通過。

さらに、その後の筆記試験も通過。

「え、なんか意外といけちゃうな……」

むしろ不安になりながら受けた最後の面接試験で、手応えがイマイチだったときは、むしろ「やっぱり、そうだよね?!」と、どこか安堵するような気持ちになったのを覚えています。

合格通知が届いたのは、面接が終わった直後、帰路に着く早稲田駅で、彼女に「落ちたと思う!」と連絡した、その数日後のことでした。

「優等生」にはなれなかった、MBA時代

そんなわけで始まった、仕事をしつつビジネススクールに行く生活。仕事と学校の合計時間は、毎日だいたい14時間。ひどい時は18時間ほどになっていました。よくできたなあと我ながら思います。

でも、頑張っているから評価されるかというと、そんなこともなくて。

学校に行くためには毎日17時台には退社していなければならないし、クライアントとの飲み会なども減らさざるを得なくなった。

会社の人からの視点で見れば「仕事に熱意がなくなった」とか、「付き合いが悪くなった」と見えてしまうこともあったかもしれません。

……そこまで仕事を「犠牲」にして通ったMBAでの成績はどうかというと……。授業が始まって1ヶ月もしないうちに、「自分は知識量も、頭の回転の速さも、平均より下だ」と、痛感させられました。

考えてみれば当たり前ですよね。ビジネススクールって、浪人して、人生を賭けて本気で通う人だっているような「狭き門」の場所なんですから。

通い出して最初の期間は、うまくいかないことの連続。
ちょっと偉そうにテレビ局の営業をしていた自分が恥ずかしくなるくらいでした。

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でも、せっかくお金を払って、「飲み会営業」以外の武器を身につけるために通っているわけですから、何かしらの自己主張をできなければ意味がない。

「アホなりの戦い方」を身につけないとダメだと思い至りました。

そこで気づいたのが……「賢い人、どんな発言でも拾ってくれる」という現象です。

どんなにこちらがバカみたいな質問をしても、「それってこういう意図の質問だよね?」「深い質問だね……」と、勝手にいいように解釈してくれるんです(笑)。

これだ!! と思いました。

これを利用して(スミマセン……)、どんな授業でも一番前の席に座って、一番最初に手を挙げて質問をするようにしたんです。

今思えばこれって、教える側の先生もやりやすいと思うんですよね。難しいことは聞かれないので答えやすいし、なんとなく空気も和む。

毎回それをやっていると、だんだん「ああ、中林くんね」と覚えてもらえるようになったうえ、「とりあえずアクションを起こして、流れを作れる人」という周囲からの認識も定着していきました。

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ビジネススクールで見つけた一番の財産は、知識や人脈もそうですが、自分の強みや弱みに自覚的になっていったことかもしれません。

0→1のファーストペンギンになれるチャレンジ精神や、場を和ませられるキャラクター性を持っていることは、広島テレビでの営業経験や、ビジネススクール時代に培った、僕だけの「誰にも負けない」強みだと思っています。

それから逆に、弱みである、自分の「賢くなさ」を自覚できたことに関しても、同様に、大きな財産になったと思っています。ここで鼻っ柱を折られたからこそ、「どうやって戦っていくか?」を真剣に考えられたわけですから。

いざ、修士論文!新規事業に挑戦するも、半年間「鳴かず飛ばず」状態

さて、大学院であるビジネススクール。卒業間近になると、修士論文を書く必要が出てきます。

ビジネススクールでの論文には、大きく分けて「アカデミック」「プラクティカル」の2種類がある……と思います。

アカデミックな論文とは、過去の研究を深く掘り下げ、新たな発見を導き出すもの。

プラクティカルな論文は、実務での実践を体系的な知見として発表するものです。

アカデミックな論文を書けるわけもなく、消去法的にプラクティカルな論文にしよう、と考えていた僕でしたが……テレビ局でのこれまでの経験を論文にしようにも、これといって、テレビ局の実務において「世間に伝えるべきこと」が浮かびません。

そこで思いついたのが「自分で局内に新しい事業を立ち上げて、それを論文にする」というアプローチでした。

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僕が目をつけたのは、当時新しく登場し、世間からの注目を集めていたクラウドファンディングの考え方。

「アイデアをウェブ上で発信し、小額の支援を募る」という仕組みを、地方テレビ局ならではの形で展開できないか——そう考えました。

テレビ局には二つの強みがあります。

一つは、テレビ局としての地域への与信力。

もう一つは、地域に密着した情報発信力です。

地元の魅力的なプロジェクトを発掘し、テレビを通じて多くの人に伝えることで、支援の輪を広げられるのではないかと考えたのです。

特に広島には、戦後、市民が樽にお金を入れて広島東洋カープを作った「タル募金」の文化があり、クラウドファンディングとも馴染みのいい地域です。

広島の助け合いの文化と、新しいテクノロジーが出会う——。そんなビジョンを描き、広島テレビでクラウドファンディングのプラットフォーム事業の立ち上げに挑戦することにしました。

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しかし、現実は甘くありませんでした。

局内で賛同してくれる仲間はゼロ。

それどころか、会社の偉い方々にさまざまなリスクを指摘され、なんと6ヶ月間、まったく事業が前進することはありませんでした。

事業が進まない焦りもさることながら、このままでは卒論が書けず、ビジネススクールも卒業できなくなってしまいます。

内心ヒヤヒヤしつつも、事業の話を周囲に伝えるなどして「種まき」だけを続ける日々が続きました。

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そんな折、顔見知りだった大手広告代理店の方から「一緒にプロジェクトを前に進めてみないか」という声がかかりました。

やっぱり、賛同してくれる人はいるんだ!!

不思議というか現金というか、支援が現れたとたん、社内も急に前向きな姿勢になり、話はとんとん拍子に進んで行きました。

そうしてできたのが、「てれびdeふぁんでぃんぐ ひろしま」です。

事業がついにリリースされると、さらに、今まで会ったこともない人から次々と連絡が来るようになりました。

各所と連絡を取り合う慌ただしい日々を過ごすなか、僕はふと、こう思ったのです。

「これ、起業してもいけるんじゃないか」。

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その瞬間。

それまで想像もしていなかった可能性が、目の前に広がっているような気がしました。

テレビ局での安定した生活を捨てて、未知の世界に飛び込むことへの不安は当然ありました。実際、テレビ局から起業の道を選ぶ人はめったにいません。

でも、自分のしたことがダイレクトに評価されて、何よりもワクワクがずっと続く、この方向は面白そうな気がする。

自分はやっぱり、こっちに進んでみたいかもしれない。

そんな気持ちが膨らみ、ついに僕は、ビジネススクール修了と同時に、テレビ局を退職することを決めました。2015年のことでした。

天狗になって退職。シリコンバレーで「世界」を知った

……なんてキラキラしたことを書きましたが。

正直に告白すると、当時の僕は完全に舞い上がっていました。

でも、仕方ないじゃないですか!

ビジネススクールとテレビ局を両立させながら、どちらの成績も一定の評価をいただいていた……気がするんですから!

テレビ局では自分が企画した事業を進められていて、さらに評価ももらえているんですよ!

俺、すげーな! 無敵じゃん! となってしまうのも、ちょっと許してほしいんです!(笑)。

でも、冷静になって考えてみると、勢いのまま退職したものの、てれびdeふぁんでぃんぐは広島テレビのもの。僕の事業ではありません。つまり当時の僕は、「イケイケな起業家の卵」ではなく、「ただの無職」だったわけです。

これはヤバいぞ。

そんなわけで、僕の次なる課題は、個人としてどんな事業を立ち上げるべきか、考えることでした。

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が、もともと「人生、これを成し遂げたい!」なんて壮大なビジョンは持ち合わせていない僕。そうそう起業のアイデアが降りてくるわけでもありません。

そこで、僕が取った手法は「人と会うこと」。

それも「憧れる起業」をしている人に会うことで、自分のなかに引き出しを増やそう! と考えました。

というわけで、僕が向かったのは……アメリカのシリコンバレー。

そう、GoogleやApple、Meta(旧Facebook)、Oracleといった名だたる企業の本拠地であり、最先端技術やイノベーションの中心地である、あのシリコンバレーです。

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行ってみて思ったことは、とにかく、ものすごいスピードで物事が進んでいく場所でした。

それがなぜかというと、多分彼らが、心の底から「自分たちが、世界を変える」と信じているから。

普通なら「世界を変えるなんて、そんな絵空事を……」と笑われてもおかしくないけれど、GoogleやApple、Metaといった企業は、実際に世界を変えてしまっている。

「自分も、こんな価値観や環境で仕事をしてみたい、世界を変えてみたい」と強く思った期間でした。

そこからじょじょに、今のEXestにつながる事業の「カタチ」が見え出してきたのです。

……ちなみに、現在、弊社の経営戦略・事業戦略をつとめてくださっている西城洋志さんとも、シリコンバレーで出会いました。

かなり天狗になっていた僕に「君の会社は"スタートアップ"なんかじゃないよ」とキツいお灸を据えてくれたのも、今となってはいい思い出です(笑)。

西城さんとの対談記事
前編 https://note.com/exest_official/n/nf24f07bd873a
後編 https://note.com/exest_official/n/nb7f31b564617

思いがけない道でも、いい人との「いい道」なら、後悔しない

考えてみれば僕の人生って、本当に「軽い」んです。

たとえば、僕はもともと、広島の田舎で、両親が教師というお堅い実家に生まれたんですね。「中林先生のところのお子さん」のイメージに泥を塗らないように……と、小学校、中学校までは日々「超・優等生」をこなしていました。

あまりに優秀だったので(笑)、うちの親はもしかすると、僕に対して「医者や弁護士になってほしい」と期待してくれていたかもしれません。

でも、僕が選んだ進路は文系。選んだ理由は、高校時代に流行っていたドラマ『踊る大捜査線』の室井さんがかっこよかったから(笑)。

「室井さんになりたい! じゃあ、警察になればいいのか?!」と。親からも特に反対されることなく、大学にもウッカリ合格してしまいました。

その後も「エントリーシートを使いまわせる会社だったから」広島テレビに就職し、MBAも「彼女に言われたから」取得。

自分の意思なんておよそ感じられないような、偶然の積み重ねをずっと歩んできました。

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でもむしろ、これで良かったんだと、今は思っています。

その時々で出会う大好きな人の期待に応えようとするなかで、思いがけない道が開けてくること。

その道を「面白そうだな」という好奇心で進んでいくこと。

その積み重ねで、今の生活があるんだな、と思うんです。

堅苦しい理念や大きな志を掲げなくても、目の前の人を「ちょっと楽しい気持ち」にできればいい。そんな些細な行動の積み重ねが、気づけば誰かの人生を変えているかもしれない。そんなことを、僕はキャリアのなかで、ぼんやりと考えてきました。

そんな積み重ねで立ち上げた僕の会社・EXest。

作っているのは、人と人との「出会い」と「つながり」を生み出すプラットフォームです。

シリコンバレーで見た「世界を変える」という大きな野望も、結局は一人ひとりの小さな出会いから始まるのだと、今は思っています。

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……というわけで今日は、一介の営業マンに過ぎなかった僕・中林が、MBAを取得し、起業するまでの道のりをお話ししました。

ここまでお読みいただいた方々、ありがとうございます。

ぜひ、EXestのこれからにも、ご関心をお寄せいただければ幸いです!

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