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研究備忘録:「自己解剖の勇気」司馬遼太郎
以下は、司馬遼太郎が「太郎の国の物語」にて語っていた内容を個人的に文字起こしをして、論理生合成をつける為に微細な加筆修正を加えた内容となっている。
私はかねてより、物事を考える際に「自分がもし相手の立場であったならば」という意識のトランスを心がけてきた。中国のことを論じるならば「自分が中国に生まれていたら」と、朝鮮半島のことを考えるなら「自分が朝鮮に生まれていたら、あるいは在日朝鮮人であったならば」と、沖縄問題に向き合うならば「もし自分が那覇や宮古島の出身であったならば」といった具合に、頭の切り替えを行うのである。そのためには相手側の歴史や文化を学び、背景に思いを致さなければならない。これは青年期に身につけた「自分を相対化する訓練」であって、たとえ不十分であったとしても、この努力によって「日本人である自分」を一度相対化してみる癖を育ててきたつもりである。先日、大阪に住む在日韓国人の友人が私を評して「あなたの頭はトランス(意識の切り替え)を行き来できる」と面白い英語でもって褒めてくれた。60歳をいくつも越えた身で、いまさら褒められてもどうということはないが、その言葉は私が若いころから自分に課してきた鍛錬が無駄にはならなかったのだと、わずかにうれしく感じた次第である。
なぜこうした「相手の身になる想像力」が重要であるかといえば、日本人はしばしば自分を絶対視し、他者や別の環境に身を置いて考えることを苦手としてきたように思われるからである。私自身が見たり聞いたりしてきた限り、時空を絶対化してしまう――すなわち「ここにある自分たちこそが唯一の基準だ」という思い込みが強すぎる傾向があるように思う。かつての明治時代にはまだ「自分たちは小さな極東の国で、欧米列強に比べれば力も資源も足りない」という強い危機感があり、そのぶん自らを相対化してみる努力があった。具体的には、明治の人びとは日露戦争までのあいだ、まるで「国民総ノイローゼ」のように自国の未来を案じていたのである。「こんな小国で、いったいどうやって近代社会を作り上げるのか」「欧米と本当に肩を並べられるのか」と、まるで不安病に取り憑かれたように悶々としていた。夏目漱石という漢詩好きの英文学者は、留学先のロンドンで日本とヨーロッパのあまりの違いに打ちのめされ、憂鬱のあまりノイローゼ気味になってしまったという。自分を相対化する思考や比較の目線があったゆえに、日本という国とヨーロッパ世界の違いを深く感じ取り、そのギャップから病んでしまったのである。
ところが昭和の初期になると、軍人やジャーナリストなどを含む世の中全体が、自分を相対化する態度を薄れさせていった。明治時代にあったような「極東の小国である自分たち」を俯瞰的に見つめる視座が退きはじめ、「日本こそが世界一である」「日本の軍事は最強であり、文化もまた優れている」といった自己絶対化が、次第に息を吹き返してきた。いったん自国を絶対視しはじめると、他者との比較を「屈辱」として拒んでしまい、自分たちの誤りを認める勇気を失っていく。明治にはまだわずかでも存在した「自分が世界のなかの一員としてはどうであろうか」という謙虚な視点が、昭和には急激に薄れてしまったのである。
印象的な例として、昭和2年ごろ英国の女性が日本を去る際に語ったというエピソードがある。彼女は日本に長く暮らし、帰国前の送別会で「やがて日本は滅びるでしょう」と言い放った。それはまことに過激な物言いだが、理由として彼女は「ヨーロッパ人は生まれつき比較を知っている。フランスにはフランスの得意な軍事分野があり、ドイツにはドイツの得意なところがある。陸軍が得意なドイツと海軍が強いイギリスのように、互いを比較して自分の長所や弱点を理解する文化がある。それに比して、日本の軍人は閉鎖的な士官学校や陸軍大学の世界で、日本陸軍こそが世界一だと思い込んでいる。比較を知らないまま政権を取れば、破滅へ向かう」と言ったという。それは、軍人のみならず社会全体に当てはまる自己絶対化の罠をはっきり指摘しているように思う。
自分を相対化するためには、いくらかの知的訓練が要る。孫文の話がわかりやすい。彼は中国革命の「国父」と呼ばれる偉大な人物でありながら、伝統的な中国学問の修養は浅かった。幼いころからハワイに渡り、西洋式の教育を受けたため、伝統的な科挙的教養ではなく、むしろ新しい知見をもって中国を俯瞰していた。この孫文が日本に深く縁を持ち、一方で中国革命を進める過程で、実に面白い「日本観」を持っていた。彼は明治27年までの日本は事実上「植民地状態」だったと解釈していた。列強との不平等条約によって、横浜や神戸などの「居留地」で日本政府は裁判権すら行使できないのだから、ある意味で植民地と言ってもよいという発想である。そして日本は日清戦争直前、ようやくその不平等条約を改正して、列強と対等な国際的地位を手に入れた。だからこそ孫文は「明治27年をアジアの独立元年と見ることができる。日本はそれ以前、反植民地国のようなものであったし、それを一気に乗り越えて独立国となった」と見ていたのである。
日本人にはなかなか馴染みにくい捉え方だが、孫文のように脳のスイッチを切り替えてみれば、「なるほど、そうとも見えなくはない」と気づかされる。もちろん「明治維新は独立運動だったのか」と突っ込みたくなる日本人の気持ちもわかるが、それは自分たちが一方的に「日本はずっと独立国だった」と信じているからである。自分の信念を絶対視していると、こうした異なる見方に出会ったときに不愉快になるかもしれない。しかし、相対的視点を持つ孫文の話に素直に耳を傾ければ、近代日本がどれほど厳しい国際圧力のもとに成立し、自信と劣等感をない交ぜにしつつ近代化を模索していたかがより明確に浮かび上がってくる。こうした柔軟さ――すなわち自分を第三者の目で見つめ直す態度――こそが、現代の私たちに必要な「意識をトランスさせる」鍵なのではないか。
ところが、日本は近現代を通じてこの「自己解剖の勇気」に欠けてきたのではないかと感じる。たとえば、日露戦争に勝利した直後、その戦史を編纂する作業が行われたが、立派な増補本の形は整えつつも、中身は不十分というのが定評であったらしい。多くの将軍や有力者が「自分をよく書いてくれ」「自分のミスを書くな」と圧力をかけた結果、客観的な分析や批判がなされず、本当の意味での「戦史の総括」にはなっていなかった。その中心になった優秀な大佐は、あらゆるデータを集めつつも、書けば書くほど圧力が高まり、結果として窓際へと追いやられ、自らも「まるで敗者の月を眺めているようなものだ」と嘆いたという。自己を解剖するはずの戦史編纂が、むしろ「勝利を飾る」方向へ流れがちになったのである。
一方、アメリカなどでは第二次大戦が終わったあと、資料を惜しみなく大学の歴史学者に提供して公的な戦争史を書かせたと聞く。これは、いわば「自分の腹を解剖してもらう」ような行為である。アメリカ軍にはそこまでできるだけの自信か、それとも社会システムによるものかは議論の余地があろうが、少なくとも外部にすべてを委ねるというのは、日本人から見ればなかなかできないことだと思う。日本の場合、第二次大戦(太平洋戦争)の敗戦を迎えても、戦史を書く主体は防衛庁であり、第三者の手で公正に分析してもらおうという動きは限定的だった。軍人は銃を手に前線に出れば勇敢でなければならないが、いざ自分たちの過去の行為を解剖されるとなると、とたんに臆病になる。私からすると、これほど不思議なことはない。
実はこの臆病さは、軍だけではなくジャーナリズムにも通底している。明治・大正期の日本には、元気のいい新聞や雑誌があり、権力を批判する言論が全くなかったわけではない。しかし、いざ日露戦争の評価やその後の対外政策など、国家の根幹に関わる事柄に真正面から切り込むほどの胆力を持った報道はどれだけあったろうか。もし本当に、日露戦争の実態やその勝因・敗因をジャーナリズムが追究し、世間に明らかにしていたらどうなったであろう。日本があの後、満州事変に進み、やがて太平洋戦争という破局に向かった歴史は変わったかもしれない。実際には、日露戦争の勝利を大本営発表のように飾り立て、「日本は世界最強かもしれない」という絶対化が世に広まった。それに疑問を呈し、客観的にデータを示しながら「実は日本は綱渡りで勝ったのではないか」と論じるメディアや人物が数多く出たとは言い難い。そうやって誤った自信や自己神話が積み重なると、次の大戦への道は見えなくなるものである。
満州事変以降、日本はまさに「自分の絶対化」を極限まで高めてしまい、国家としての舵取りを誤った。そして、太平洋戦争の敗戦を経て私が感じるのは、「昭和を解剖するということ」は、あまりに大きな精神的負荷を伴う行為だということだ。私は今63歳、数え方によっては64歳になる。昭和という時代は長く、私にとっても多感な時期を通過した時代である。ある人が「これだけ昭和について喋るなら、いっそ書いてみたらどうだ」と勧めてくれたことがあるが、私にはその気が起きない。もし本気で昭和の全体像に切り込んでいこうとすれば、恐らく途中で発狂するか、身体を壊すか、何かしら異常を来すほどの苦痛が伴うだろうと思う。あまりにも暗く救いのない出来事が重なった時代だからである。
戦争末期、私は栃木県佐野にいて、戦車連隊の一員だった。九十九里浜や相模湾に敵が上陸するかもしれないから防備せよというわけである。そして敗戦を迎えたとき、当時23歳で司官学校を出たばかりの中隊長(西野さんという、私と同年代の方で、今でも付き合いがある)がぼそりと「これは戦争ではなかったな」と口にした。それも当然で、欧米の総力戦とは似ても似つかない「一方的にやられる」だけの状況を、彼もプロの目で見抜いていたのである。「戦争らしい戦争をしていない」と。なぜこんな結果を招いたのかを直視すれば、結局は国家として未熟であったという結論に至る。しかし、自分たちがどう未熟だったかを真正面から検証すれば、想像以上の苦痛に襲われるだろう。だからこそ昭和の全貌を描こうとすると、内臓までおかして死んでしまうような気がするのだ。
日本がどうしてこうなったかを振り返るとき、やはり明治元年に国際社会の一員になったばかりの「若い国」であったという歴史的事実を思わずにいられない。文明としては古くから連綿としていたが、近代国家として世界にデビューしてからは100年少しにすぎない。明治の早い時期から欧米列強に追いつくための苦労は重ねてきたが、それは若者がいきなり大海原に乗り出すようなものだった。日露戦争勝利のあと、自己過信が肥大し、そこから生まれた「絶対化の精神」が、昭和の戦争失敗を招いたという構図は、ある意味では人間の成長期に似ている。幼年期には素直に「自分は未熟だ」と思い、大人の世界を見上げて憂鬱になったりもする。しかし、一端成功体験を得ると、突如として「自分はすでに成熟した」と錯覚してしまい、分不相応な挑戦に乗り出す。その先で痛烈な失敗を味わうと、初めて「自分は何もわかっていなかった」と気づく――という人生模様に通じるものがあるように思う。
たとえ昭和の失敗がそうした未熟の結果であったとしても、痛めつけられた現実は厳しく、アジアの国々や国際社会に大きな迷惑をかけたことは消えない。戦後の日本は、経済成長や科学技術の発展によって豊かになったといわれるが、その一方で「過去の過ちや未熟さを冷静に直視し、分析し、学び取る」という作業は十分に果たしたであろうか。多くの人々が経済的成功を喜び、「西洋先進国に追いついた」という満足感を抱いたが、歴史の検証や自己批判となると、いまだにどこか尻込みする雰囲気があるように感じる。軍人ならば勇敢であるべきところ、歴史家や第三者が「ではあなたがたの行為を徹底的に解剖させてもらいます」と言った途端、一転して臆病になってしまう。その臆病が、何度でも同じ轍を踏む原因になるのではないかと危惧している。
だが私は、日本という国や社会をすべて否定したいわけではない。むしろ、人間的な情感や文化的な繊細さなど、日本人が積み重ねてきた価値もまた大切だと思う。ただ、それを本当に世界のなかで活かすためには、まず「相手がどう感じているか」を知ろうとする姿勢がなければならない。他国の歴史や文化を自分のことのように考え、「自分が中国人だったら」「自分が在日朝鮮人だったら」「自分が宮古島や那覇に生まれていたら」といった切り替えを地道に行う。その想像力こそが「真心」と呼ぶにふさわしいのではないかと思う。日本人は「真心」という言葉を好むわりに、その対象を同胞や身内に限ってしまいがちである。けれども、真にこの国が世界と共生しようと望むのならば、視野と想像力をぐんと広げて、相手の痛みを「自分の痛み」と感じられるほどの感覚を育てる必要がある。
たとえば、高知県のように面白い人物を次々と生む土地であっても、偏差値教育という「数値化された価値観」に馴染めず全国最下位に近い成績を出すことがある。だが、それは裏を返せば「普通の基準」で測れない豊かな発想や気質を持っているということでもある。坂本龍馬のように時代を見通す才能は、決してテストの点数だけでは測れない。むしろ偏差値社会という統一基準を押し付けられて「生き苦しい」と感じる若者がいることは、われわれがあまりに「一元化の価値観」に縛られ、相対化の視点を失っていることの証左かもしれない。若い人たちが今後、それをどう受け止め、どう乗り越えるかは彼ら自身の問題である。私からはかすかなヒントとして、「自分を相対化し、他者の視点に立つと案外新しい道が見えてくる」ということを言いたいだけなのだ。
結局、「自己解剖の勇気」とは、国家にせよ個人にせよ、自分たちの過去をありのままにさらけ出し、痛みを伴いながらその内実を検証することを厭わない態度であると思う。もし日本人にこの勇気があったならば、日露戦争の後からもっと早く「日本という国はまだまだ危ういのだ」と知り、太平洋戦争という痛ましい結末を回避できたかもしれない。あるいは、敗戦後の混乱のなかでもう少し冷静に戦争全体を整理し、国際社会に対して堂々と過去を語れる土台を作れたかもしれない。しかし実際には、その勇気が欠けていたし、いまなお十分には持ち得ていないと感じる。どなたか、私とは別のより若い知性の持ち主が昭和を真正面から解剖し、私が恐れるあまり筆をとれない闇に光を当ててくれたなら、どれほど多くの示唆が生まれるだろうか。
私はすでに60歳を少し過ぎ、体力はもちろん、気力も若いころのようにはいかない。それでも自分の人生を振り返れば、トランス――「自分をどこにでも移動させて考える習慣」だけは忘れずにやってきたつもりである。あえて申すなら、それこそが「相手の文化や歴史を敬い、自分を相対化してみること」の基本ではないかと思う。こうした思考方法をもう少し多くの人が身につけていれば、日本ももう少し違った社会になっていたであろうし、これから先、世界のなかで「真心をもって他者と共生する国」になれるのではないか。自己を客観視するための作業は、ある種の痛みと同時に、深い理解と新鮮な喜びをもたらす。これは音楽番組の最終回にふさわしい意義のあるお話かどうかはわからないが、少なくとも私が心に温めてきた考えの一端である。
長々と申し上げてきたが、結論としては、「日本という国も、また私という人間も、自己解剖の勇気をもう少し持ってよい」ということである。自らの失敗や欠点を強い光で照らし出し、そこからどんな不都合や醜さが浮かび上がろうとも、逃げずに受け止める。それができれば、次の一歩を踏み出すときの指針になり得る。日本人が古来大切にしてきた「真心」を、他者のみならず自分自身にも向けること――これこそが、これからの日本が生きていくために欠かせない態度だろう。人間は、そして国や社会もまた、自分で自分を解剖できるだけの成熟を得たときに、はじめて真の成長を遂げるのである。
さまざまな話があちこちに飛んでしまったが、最後まで聞いてくださった方には感謝申し上げる。私も12回にわたって、ずいぶん勝手なおしゃべりをしてしまった。が、もしこれが若い世代の誰かにとって、未来を考えるためのヒントになれば、これ以上の喜びはない。自分を省み、相手を慮ることで、人と社会はきっと変わっていけると信じている。どうもありがとうございました。