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研究備忘録:「滅びるね」と夏目漱石が予見した日本の未来と現代の煩悶青年たち
要旨:
「滅びるね」、この夏目漱石が『三四郎』で放ったこの言葉は、日露戦争後の日本社会の矛盾を鋭く指摘したものである。しかし、それは単なる過去の批評ではない。現代の若者たちが抱える孤独や煩悶、価値観の揺らぎにも通じる普遍的な問題を浮き彫りにしている。デジタル時代における孤立や自己実現の困難さを考えるとき、漱石の文学が再び問いかけられるべき時代に来ているのではないだろうか。夏目漱石の小説『三四郎』(1910年発表)は、日露戦争終結(1905年)から5年後という日本が一等国としての地位を誇りながらも、社会的・精神的な矛盾を抱え始めた時代に書かれた作品である。本作に登場する「髭の男」は、漱石自身を投影したキャラクターと解釈されることがあり、その言動は、当時の日本社会への鋭い批判を含意している。髭の男の「滅びるね」という言葉は、日露戦争の勝利に酔う日本社会が内包する自己崩壊の予兆を暗示していると考えられる。また、漱石が一高で教鞭をとっていた時期の教え子である藤村操の自殺(1903年)は、当時の社会が若者に課した「立身出世」という価値観の過酷さを象徴し、その後の「煩悶青年」という社会問題に発展した。日露戦争を経て「一等国」としての地位を確立した日本だが、実際には財政難や社会的矛盾に苦しむこととなり、漱石の文学はこうした時代背景を鋭く反映している。さらに、現代における若者の孤独感や自己実現の困難さは、明治期の「煩悶青年」と共通する側面がある。デジタル技術の進化による精神的孤立や価値観の多様化は、21世紀の日本社会における「煩悶青年」の新たな形態を表している。
目次
はじめに
第1章 『三四郎』における髭の男の象徴性
第2章 明治・大正期の社会問題と「煩悶青年」
第3章 21世紀初頭の社会と「現代の煩悶青年」
小結
はじめに
夏目漱石が『三四郎』を発表したのは1910年6月である。この年は、日露戦争終結から約5年後であり、漱石の死の約6年前にあたる。『三四郎』に登場する「髭の男」は、漱石が自身を作品世界に投影した存在ではないかと推測される。この物語を高校時代や大学時代に読んだときは、主人公・三四郎の視点で美禰子に心をときめかせる感覚であったが、漱石がこの作品を執筆した年齢を超えた現在、『三四郎』を読み直すと、髭の男の視点で新たな感覚を得るに至った。
『髭の男は「お互い哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもダメですね。」(中略)三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかしこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。』
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夏目漱石は、日露戦争の「勝利(辛勝)」により一等国になった、と浮かれる日本人が充満するこの社会が実は自滅に向かっている事を、この時点で予見していたのではないだろうか?という感覚である。
本稿では、『三四郎』における髭の男の言葉とその背景にある社会情勢を考察するとともに、明治・大正期における「煩悶青年」という社会問題を現代の若者の状況と比較し、「21世紀初頭の日本における煩悶青年」という視点から再考する。
第1章 『三四郎』における髭の男の象徴性
『三四郎』の髭の男は、作品中で印象的な台詞を放つ。「滅びるね」という言葉は、日露戦争に勝利して一等国となった日本が、内実としては脆弱であることを示唆している。この言葉は、日露戦争後の日本社会に充満していた過剰な楽観主義や一等国意識に対する漱石の批評的態度を象徴している。髭の男が「哀れだなあ」と語る場面は、勝利に浮かれる社会が抱える矛盾や限界を鋭く指摘したものであり、漱石自身の思想が色濃く反映されていると考えられる。
漱石がこのような視点を持ち得た背景には、当時の日本社会が急速な近代化の中で伝統的価値観と近代的個人主義の狭間で揺れていたという時代状況がある。髭の男の視点は、漱石自身の内なる苦悩や時代に対する洞察を反映しており、単なる登場人物以上の象徴的存在として位置づけられる。
第2章 明治・大正期の社会問題と「煩悶青年」
夏目漱石が『三四郎』を執筆する数年前、1903年5月、授業中に態度の悪さを漱石に叱責された漱石の教え子、藤村操は、その数日後、華厳滝において、傍らの木に『巌頭之感』という遺書を残し華厳滝において投身自殺を遂げた。
『巌頭之感(悠々たる哉天壌。遼々たる哉かな古今。五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟ついに何等のオーソリチーを価あたいするものぞ。万有の真相は唯一言にして悉つくす。曰く「不可解」。我この恨うらみを懐いて煩悶終ついに死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。)』
当時のエリート、旧制一校の学生であった藤村操の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の日本社会に大きな影響を与え、藤村の自殺後、華厳滝で自殺を図る若者が続出した。藤村の死後4年間で華厳滝で自殺を図った者は185名で、未遂が145名、既遂が40名に及んだ。そして、この4年間の間に日露戦争(1904/02-1905/09)が起きていた。日本国民は日露戦争に勝利して日本帝国が世界の一等国になったと浮かれるが、賠償金が取れなかったこの戦争により日本は財政難に陥る。(実際に日露戦争の戦費調達資金をイギリスの金融機関に完済できたのは1986年)この後追い自殺現象から、日露戦争後の「勝利」による社会の高揚感の裏で多くの若者が精神的な煩悶に陥っていたことが浮き彫りとなる。そして、この藤村の事件は、彼が残した『巌頭之感』という遺書とともに社会に大きな衝撃を与え、「煩悶青年」という言葉を生み出した。
そして時代の空気は変わる事なく、若者たちは、近代化の激流の中で「立身出世」を美徳とする社会的価値観の中で自己実現を求める一方、その重圧に耐えきれずに苦悩し続けた。そして1912年9月に明治天皇崩御、乃木希典殉死、夏目漱石が1916年に死去。1914年7月から1918年11月まで第一次世界大戦。そして1920年から戦後恐慌、1923年9月に関東大震災、1926年12月に大正から昭和へ改元、1927年に昭和金融恐慌、1929年に世界恐慌、日本が漁夫の利を得た第一次世界大戦の戦時バブル崩壊による1930-1931年の昭和恐慌、それを打開する事を期待する空気の中、1930年9月に関東軍による満州事変を事後承認。その後は、ご存じの通り、明治が登った坂道を、昭和が転げ落ちる事になる。そして、この坂道を転げ落ちていた世代の中心は、まさに藤村操の世代であった。
第3章 21世紀初頭の社会と「現代の煩悶青年」
現代日本においても、若者が抱える苦悩は決して過去のものではない。以下に示す3つの視点から、21世紀初頭の「煩悶青年」の特徴を考察する。
①デジタル時代における精神的孤立
デジタル技術の発達により、物理的な孤立は解消されつつあるものの、精神的な孤立がむしろ深刻化している。ソーシャルメディアを通じた表層的なつながりは、人々に孤独感を深めさせる結果をもたらしている。このような状況は、産業化の過程で疎外感を抱いた明治期の煩悶青年が直面していた問題と共通するものである。
②価値観の多様化と自己実現の困難
現代の若者たちは、従来の「立身出世」や「社会的成功」という成功モデルが機能しない中で、新たな価値基準の模索を迫られている。これは、明治期において伝統的価値観と近代化の波の間で揺れ動いていた青年たちの精神的苦悩と類似している。
③テクノロジーと人間性の相克
スマートフォンやSNSの普及は、人間関係の質的変化をもたらした。この技術進化による効率化の裏側で、人間的なつながりの希薄化が進行している。この状況は、近代化の中で人間疎外を経験した明治期の社会問題と本質的な接点を持つ。
小結
夏目漱石の『三四郎』に描かれた髭の男の台詞や藤村操の自殺事件を通じて浮かび上がる「煩悶青年」というテーマは、明治・大正期のみならず、現代社会にも通底する課題である。21世紀初頭の日本における若者の苦悩は、テクノロジーの発展や価値観の多様化といった新たな文脈を伴いながらも、漱石が見据えていた人間の普遍的な精神的葛藤を継承しているといえる。
漱石が『三四郎』を通じて描いた時代批評や人間の内面的な苦悩は、現代においても重要な示唆を与える。デジタル時代における精神的孤立や自己実現の困難さに直面する現代の若者たちに対し、漱石文学の持つ普遍性は再び問い直されるべきである。現代社会において「煩悶青年」がどのように再現され、その解決策をいかに見出すかは、日本社会が抱える根本的な問いと直結しているのではないだろうか。