あなたは本当にクリスチャンなの?
一般的に、クリスチャンとはキリスト教徒の俗称だが、信仰の定義の曖昧さにおいて他の宗教に追随を許さないが、赦し赦されるための御言葉、それが福音である。
しかし、改めて、
イエスキリストが今も生きていることを信じているか?
あなたは救われていて、天の国に属しているか?
あなたの中に聖霊が宿っていて、神を愛し、隣人を愛せているか?
と問われると、僕は不安になってしまう。
イエスキリストと出会って早7年が過ぎようとしているが、成長しているどころか、むしろ信仰が後退してしまったのではないかと思うほどに、神様が遠くにおられる気がしてならない。
神様の声を聴こうと思い、聖書や関連本を読み、学んできたつもりだった。しかし、知れば知るほど、考えれば考えるほど、神様の輪郭はボヤケ、もはや識別できない。
しかし、心情的には、イエス様を愛していて、付いて行きたいと思う。しかし、認識できない人に付き従うというのは、どういうことだろう。まさに、迷える子羊ではないか。
神の声を聴きたい。その切実な祈りも、簡単に応えられるわけもなく、詩編のダビデのように、呻くしかない。
はたして、悔い改めとは何か。
自己の罪深さを認め、嘆き悲しむことなのか。
神に寄り頼むことなのか。
あるいは、罪と戦うことなのか。
段階的に捉えてみよう。ただし、順序には個人差があるし、必ずしも一方向に進むものでもなく、誰しも進退を繰り返している。
1,罪を自覚する。
2,神様に向かって生きるように心が促される。
3,洗礼を受ける。
4,罪と戦う。
5,罪を克服する。
聖霊様は、神様と交信するためのアンテナのような存在だと僕は感じており、罪はそれを阻害する妨害電波のようなもの。
つまり、罪があると、アンテナ機能が発揮されず、神様と直接的に繋がることが困難になり、その結果、聖霊の内住を疑ってしまったり、神様に見捨てられたように感じてしまう。
よって、嘆きの根本原因は罪である。では、人間は罪を完全に克服できるのだろうか。どう考えても、自助努力では不可能である。
自分の目をえぐって、手を切り取ることができれば、姦淫の罪を克服できます。さあ、やってみよう。
しかし、無理だからと言って諦めるのではなく、そこに立ち向かうこと、戦う意思を表明すること、これこそが神様に付き従うということではないか。
これこそが信仰の実ではないか。
ある罪を克服すれば、また次の罪が現れてくる。そこでまた戦う。
この霊的な戦い無くして、霊的な成長は望めない。
嘆くだけの信仰はもう辞めて、キリストと共に戦おうではないか。
「恐れるな。私はあなたと共にいる。」
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