祐介

キリスト者。92年誕。妻あり。 ご縁賜った方に、ご祝福がありますように。

祐介

キリスト者。92年誕。妻あり。 ご縁賜った方に、ご祝福がありますように。

最近の記事

神の恵みは空気のように

高慢とは、なんと恐ろしい罪だろう。 脳内で、自らを天に引き上げ、他人を地に貶しめる。 神に近づいたつもりで澄ましていて、しかし苦労して築き上げたその塔は、やがては跡形も無く崩れ去る宿命にある。 少しばかり知性に恵まれているからといって、それが神にとって何の益になろうか。 見た目が優れていようとも、経済に満たされていようとも、天賦の才を発揮していようとも、それが利他心によって活用されない限り、益になるどころか、自らの魂を傷つけてしまう。あらゆる不祥事は、おおよそこの罪が原因で

    • ことば

      実体を持つ愛の言葉は人の心を耕す。 祈りとは、言葉以外の何物でもないが、生きておられる神様の前に捧げられた時、実体を帯びて世に愛をもたらす。 はたして、私の言葉は実体を持っているだろうか。 私が、知恵ではなく理屈を習得しているのみであれば、農家が、作物でなく雑草を育成しているに等しい。なんと愚かなことだろう。 主を畏れることは知識のはじめ、と聖書に度々書いてある。 叡智は人の心を耕し、へりくだらせるが、高ぶる知識は強い農薬のように土壌を殺し、人の心を固くする。 その違いは、

      • 愛の所在

        私が神の愛を知ることができたのは、「私を救うため」というよりも、「その私が次の人に神の愛を伝えるため」だったのではないか。 だとすれば、その業を怠るなら、わが救いは半分の価値しかない。 しかしそれは生半可な事業ではない。命を賭する覚悟を要するが、その価値は有り余るほどに有る。 流れる清らかな川は、多くの生命体を養い、清浄な空気と美しい景観をもたらす。 滞留した池には、ドブガエルやドジョウが泥の中にひっそりと暮らしている。 庭の金柑の木を眺めていると、アゲハチョウの幼虫がそ

        • 愚者の箴言

          冷たく透き通るような空気は、夜空をより鮮明に写す。素晴らしい秩序、美しいデザイン。 目を上げ、天を見続けよ。暴虐と欺瞞に満ちた地に、落とされてはいけない。 知恵を得よ、叡知に満たされよ。 それは真理の入口、聖別の隔たり。 愚かな者になるな。知性を尽くして、あなたの主である神を愛せよ。 自然の秩序の運行を知りながら、その創造者は知らないと云う。 創造者を知りながら、愛は知らないと云う。 肉に生きれば重力に抗えない。 魂のみが法則から自由である。 人生に意味を求めるの

        神の恵みは空気のように

          老衰の価値

          そろそろ自分が主人公だと思っていた舞台の幕を閉じる時が来たらしい。嗚呼、何も実らぬつまらぬ劇だったが、結果的にそれは喜劇だった。それで十分なのか知らん。 いつの時代も主人公は若者であって然るべき。引退者はそれをサポートする脇役に徹しなければならない。それができて初めて老衰の価値がある。自分が主人公だと思っている内は、どんなに歳を重ねていようとも、その人は大人に満たないのかもしれない。 他の例に漏れず、キリスト教会に若者が少ない。福音は冥土の土産でもあるが、一義的には「生き

          老衰の価値

          僕はまだ死ねてない

          キリスト者は一度死ぬ必要がある。肉、自我、罪。これらの要素は不可分であるがゆえに、いずれかを焼き尽くそうと思えば、他の要素も焼き尽くさなくてはいけない。また、いずれかを焼き尽くせば、他の要素も消滅する。 賀川豊彦の光を浴びる。彼の聖さの前に、僕は全く無価値なものに思える。彼は若かりし時に、社会的、肉体的な死を垣間見、そして、救われた肉体を貧民窟に投げ捨てた。 そこで神が働いたとしか思えない偉業が巻き起こる。大正時代にミリオンセラーを記録した自伝的小説「死線を越えて」が生み出

          僕はまだ死ねてない

          人間の尊厳

          残暑の厳しい9月も中旬。空は未だに夏の顔。 異常気象が常態化すれば、それは正常ではないか。物事を正しく見ようとしなければ、成長はなく、生きる意味も損なわれてしまう気がする。そのための方法としては、マスメディアは極めて不適切であって、とりわけ現代のテレビは、思考搾取装置である。 己の頭で内発的に思考している人間は、どれくらいいるのだろうか。疑問が浮かんでもすぐに検索して答えにたどり着ける利便性は、人間の尊厳を奪ってしまう。テレビに張り付いている人間の尊厳はどこにあるのだろう

          人間の尊厳

          光が増えれば、闇も増す。

          人は、発光体ではありません。 「恵みという光」に照らされているだけの存在である事実を忘れたときに、背後から忍び寄る「高慢という闇」。 それは、アダムとイブから受け継がれ続けている「原罪」の根源的な原因であり、サタンの反逆の原因でもあります。 自分が光っているからといって、自分が発光体だと勘違いしてしまうと、神に背を向けて敵対することになってしまうので、常日頃から自戒の祈りを持ち続けられますように。 では、発光できない生物、人間がすべきことは何か。 一つは、愛という光を浴

          光が増えれば、闇も増す。

          義は輪郭、愛は内実

          この言葉は、聖書を読んでいるときに、ふと思い浮かんだ言葉なのですが、熟思していなかったので、この場を借りて考えてみようと思います。 ところで、どんなに聖書の言葉を吸収したつもりでも、純粋無垢な信仰には勝てないと感じることがあります。皆さんも経験がおありかと思いますが、信仰のピークは初期ではないかと。 遠い目で、自分にもそんな時期があったな、と感慨に浸るマウントおじさんになりたくない。。 しかし思えば、その初期の状態は、愛ではなく恋なのです。つまり、熱しやすく冷めやすい。で

          義は輪郭、愛は内実

          あなたは本当にクリスチャンなの?

          一般的に、クリスチャンとはキリスト教徒の俗称だが、信仰の定義の曖昧さにおいて他の宗教に追随を許さないが、赦し赦されるための御言葉、それが福音である。 しかし、改めて、 イエスキリストが今も生きていることを信じているか? あなたは救われていて、天の国に属しているか? あなたの中に聖霊が宿っていて、神を愛し、隣人を愛せているか? と問われると、僕は不安になってしまう。 イエスキリストと出会って早7年が過ぎようとしているが、成長しているどころか、むしろ信仰が後退してしまったので

          あなたは本当にクリスチャンなの?

          堕落も一種の生存戦略

          皆さんご承知の通り、世の中はバケモノに溢れています。そして、かくいう僕もその一人。しかし、最近になって、ごみ屋敷のような精神がゆっくり分解されている気がする。 どうして、人間は生きながらにして腐敗していってしまうのだろうか。どんな分野であれ、最終的には悪がのさばるという法則。どう考えても、人間のベースは悪である。 朱に交われば赤くなる。目に見える存在に、完璧な白は存在し得ない。だから、赤ければ赤いほど良いとして、いいものだろうか。 大きい敵に勝つには相手よりも大きくなれば

          堕落も一種の生存戦略

          この世はアリジゴク

          仮に、生きる意味がない、もしくは、生物学的にしか認識できないとしたら、人生は蟻地獄。だとしたら、それは死にも生にも絶望しかない。宗教はアヘン(薬物)だという言葉があるが、一体何が中毒的で、逃避的なのか。 宗教を、人間が作った想像の産物だとすれば、その時点でその神は不完全であり、人間が一次的には介入しない僕のキリスト信仰は宗教ではなく、個人的な神との関係性を指す。 宗教活動の目的は何か。端的に言えば、権威者の欲望である。それに抵触するようであれば、離れた方がいいに決まってる。

          この世はアリジゴク

          なんという空しさ

          ひとりの時間が長すぎると、自分が分からなくなってくる。 人格とは人間関係や環境に依存して形成された、適応の結果に過ぎない。つまり、自分が分かるという方がよほど幻想である。 全てが適応の結果であり、それ以上の意味はない、としたら、なんと空しいことか。 聖書の「コヘレトの言葉(伝道者の書)」は、ソロモン王によって書かれたとされている。(諸説あり) 聖書の記述によれば、ソロモン王はBC1000年頃のイスラエル王国の王様で、ダビデの息子であり、神から特別に授かった知恵によって国を大

          なんという空しさ