趣味に救われてきたんだと思う(金銭面以外)。
週に一度くらい、自分のしたいこともできなくなったら、その仕事はやめた方がいい。
そんな言葉をどこかで見て、うん、なるほどな。そうだな、と思った。
そんなに人と接することが得意でもなく、またそれを好むわけでもない自分の休日は、何事もなくて、写真を始める前は、部屋で漫画を読むのが好きな超絶インドアな日々だった。
子どもの頃から、独りが好きな人間だったし、なんなら同世代がハマっていたもの……ミニ四駆とか、ビックリマンシールとか、Jリーグとか野球とか、そういうものにどうしても興味が持てなかった。
だから兄が高校に入って部活に忙しくなると、とたん、休日の過ごし方は、家のなかで、好きな漫画や小説を読むだけのような、そんな日々。そうして社会人になって、休みの日をどうすればいいのか分からず、まあ、やるとして、当時できたばかりのイオンのヴィレッジヴァンガードに行って本を買い、カフェで過ごすくらい。時折友人に誘われて飲みに出るものの、だいたいこんなもん、ずっとこれが続くのかな、と思っていた。
そんな折に出会ったカメラという存在。そのおかげで僕は外に出るようになったし、いろんなところへ出かけてみるようにもなった。
だいたい、妻と結婚したのも、写真をしていなければそうはなっていなかったわけだし。
趣味は、子どものころの遊びの延長にあるものだと思っている。
さっきも述べたように、子どものころにそういう遊びを好まなかったけれど、でも例えば、ビックリマンシールを集めるのとか、ミニ四駆を走らせることだとか、そういうものの先に、趣味があるのだと思う。
遊びといえば、子供の頃は鬼ごっこしたり、おもちゃで遊んだり、ごっこ遊びだったりしていた。そこで交わされる言葉は、その遊びにまつわるものが中心だ。それがいつの頃からか遊びと言えば街に出て飲食を共にすること、それからデパートで買い物したりしつつ、話をすることになっていたりする。話の話題は、互いの近況だったりして、食事やウインドウショッピングはあくまで、その自分ごとを口にし合うための補助機能だ。
しかし趣味は違う。そしてだから趣味はいい。カメラならカメラの話をする。レンズがどうしたとか、画像処理はどうしているとか、どこそこがなかなか撮影によいとか。それって子どものころの遊びと本質的に似ている気がする。とにかく遊ぶことのために言葉が交わされるのだ。とはいえさすがに大人だから、気の置けない仲間のようになんでも言えるというわけでもない。でもだからこそ、趣味のことだけに話の花が咲かせられる。そういう距離感は、心許せる友人と一緒にやいのやいのやるのと同様、けっこう心地いいもんだ。
そうだね、まあつまり、わいわい集まって賑やかにやるほどの友だちがいないってことだ。けれどそういう人は少なくないのではないか。特に歳を食うほど、家族に重心が置かれるほど、そうなる人も増えるのではないかな。
だから、僕は趣味によって救われてきたんだと思う。もしそんなものがなければ、僕は今ごろ、ちゃんとできていたのか、少し怪しい。
朝は7時前には家を出て、10時前に帰宅するような毎日にちゃんと楔を打つことができていなかったかもしれない。趣味があることでどこかバランスを取ってこれた。また、たとえば趣味があることで、きちんと1人になる時間が持てた。闇雲に今の立ち位置も見えないままでいなくて済んだ。
家族がいる今、その時間はほんのわずかだけれど、その1週間のうちのほんの2時間だけでもいい。それを見逃してくれる家族に感謝しつつ、また、縦横無尽とはいかないまでも、働くことで、それができるだけの経済的余裕をいただけることにも感謝しつつ、趣味が日常の節目となっていることそのものをありがたいと思うのだ。