リュック・ベッソン『レオン』の饒舌なワンカット
『レオン』といえば、リュックベッソン監督、我らがドラえもん、ジャン・レノ主演、敵役に鬼才ゲイリー・オールドマンを配置し、ナタリーポートマンが初出演を果たした映画である。
いやはや、その後、ジャンがドラえもんになるとは思いもしなかったので、色々と衝撃であった。
この映画を、僕は14歳くらいのときに観ている。完全版が地元の小さな映画館で上映され、僕は生まれて初めて映画館で映画を観たのだった。ノーマル版は家で観ている。もしかしたらサンプル映画だったかもしれない。繰り返し観ていた記憶があるので、そうかも。我が家はビデオレンタル店を営んでいたのだ。
ナタリーポートマンは年齢が同じだ。なんとなれば生年月日全て同じである。もちろん時差はあるから、正確には違うかもしれないが、これはもう運命だ!と勝手にテンション上がってしまった。それくらい当時、ナタリーポートマンの、マチルダとしてのあの退廃的な雰囲気は魅力的だった。かわいいとかきれいとかそんなんでなく、あの空気感ね。これで同い年かよ?と思った。そしたらクラスに同じ空気感を持った子がいることに気づいて…と、話が逸れてしまいそう。
サウンドトラックをエリック・セラが担当し、これがまたかっこいい。今聞いても一級品の、精神に強く訴える音楽ではなかろうか。サントラが発売されて、購入した。それで、それを持っていることを知ったクラスの例の子が声をかけてきて…と、また話が逸れてしまいそうだ。戻せ戻せ。
時代が変わっていき、あの映画はちょっと…という感じになっているし、ナタリーポートマン自体もそのような発言をしている。もちろん倫理的にちょっとアウトかもしれないが、あのシリアスな空気感があるからこそ、レオンが映画に夢中になっているときの無垢な振る舞いとか、ときどき見せるマチルダの無邪気さが際立つ。そしてそれに対してゲイリー・オールドマンの狂った演技がめちゃくちゃ光って見える。個人的にこの映画のオールドマンは最高だと思う。
エェェブリィィワンッッッ!
キレた役柄。最高すぎる。
さて、この映画のなかで好きなシーンがいくつかあるが、その中で静止画的に、おお、と思うワンカットがある。
それがこちらだ。
饒舌だな、と思う。すべてここに集約される。
これに気づいたのは、もう少し大人になったとき。これはアカン!アカンでえっ!と語っているんだ、と思った。
本来ここは、助けに来たレオンと、助けられたマチルダが抱きしめ合い、無事を噛み締めるシーンとして、2人の顔を真横か、あるいはどちらかの顔をクローズアップするかでぴたりと止めると思うのだけれど(一応そのカットはあったはず)、シーンが変わる前の最後のカットで映し出されたのは、レオンとマチルダの身長差。(マチルダの靴がかっこいい)。このシーンがあるために、それまでまだ微妙にされていた2人の関係が、男と女の愛情であると言うことを断言させてしまう。そんな饒舌さがある。
うろ覚えだが、マチルダを助けに来たレオンが軟禁されていた部屋に突入するのはこちらから見て、右から左。つまり上手から登場する。下手側にいたオールドマンのしもべたちがパパッと打たれて、マチルダがレオンに駆け寄る。そして抱きしめ合う。するとどうしてこうなるか覚えてなくて、こりゃもう一度見直したいところだが、件の足下のシーンになると下手と上手が入れ替わる。なぜにこんな面倒なことをしたのか。
別役実さんの言葉に「舞台には、上手から下手に風がゆるやかに吹いている」と言うのがあるが、助けに来たレオンの動きはまさにその風に乗っていて、まさに助け船がやってきたという印象を強める。一方、抱きしめ合うシーンではマチルダが風上にいることになり、それは安心を意味するように思える。
ジブリ映画も、物語が解決に向かう際の疾走は上手から下手へ駆けていくので、それに似た動きをしている。これは日本語が縦読みの際に右から左に読むことと繋がるところがあるような気もするが、しかしほとんど横書き左から読むようになっている現代では、上手から下手は「彼の地から帰還する」という意味合いがあるのかもしれない。
洋画はたいてい、味方を下手に、敵を上手に配置して、主人公のゴール(敵を倒す)を目指すシーンが描かれていく。これは左から右に文を読む、つまりは目線の動きにしっくり来るので、自然な配置だ。なので、レオンのこのシーンは、それとは逆になる。だから、ここは敵を倒すことではなく、「無事に自分の陣地に帰る」という安堵感が表現されているのだ、と思う。とすれば、足下のシーンも、マチルダが無事に帰れることの安堵感を示す上手側に配置されたということなのかもしれない。
これが逆になっていたら、マチルダの積極性がより感じられるようになり、また、レオンの方は彼の地に戻る感(つまりマチルダに母性を植え付けることになって)が出て、もしかしたら、もっと2人の関係がタブーであるということを強調してしまっていたかもしれないと思う。
…まあ、勝手な想像なのだけれど。
他にもこの映画には素敵なシーン、見事なシーンがあるのだが、静止画的におっと思わせるのが今回のワンカットだった。言葉に語らずとも、画で訴える。昨今の時代の流れで色々言われる映画となってしまった(時代のせいでなくとも元からそう言う倫理的危うさを抱えている映画には違いなかった)が、アル中の元戦闘機乗りの父親が、エイリアンとの対決で、あら大変、強力なビーム発射されちゃうわ、というときに、その父がその発射口に飛行機もろとも突っ込んで危機を回避したのを、それを見ていた娘に、なんだか偉い感じの将校が、「君のお父さんはよくやった」と肩をポンと叩いて、地球を救った父の偉大さとか、父を失った悲しみとかそんなのを、ここは言葉で簡単に片付けちゃえと、ものの1秒で処理されるアクション映画よりは、よっぽど映画的に健康だと思う。まあ、アクションSFだから仕方がないのだろうけれど。
ただ、アクションであれ、コメディであれ、ホラーであれ、SFであれ、そこに人間の機微が描かれていない「凄い映像」では、何も残らない。先の宇宙人が攻めてきた、という映画は、きちんと盛り上がるような感情の起伏ラインがあったものの、それがあまりに露骨過ぎて、まるで、高級料理を強引に食えっ!そして感動しろ!という意志が見え過ぎてしまっていた。饒舌というよりも口が軽すぎとでも言えばいいか。映画において、大切な場所は言語で説明してはならないのだ。大切なところほどさらりと描く。説明しない。説明ではなく、しっかり描写する。その描写が、あの足下のワンカットにはある。説明のない、饒舌なワンカットだ。
小説を書くときに教えられたことではあるが、小説だけでなく、映画であれ、演劇であれ、いい作品はそうしているように思う。そうしてこの『レオン』というフランス発の映画もまた、人間の機微をしっかり描いているからこそ、この時代にあっていまだに好きな映画として語る人が絶えないのだろう。映画という嘘が成立するには、本当をしっかり、腰据えて描かなければならないのだ。