エッセイという名の弱音
書くことがないなぁ、と言う日に、どんな言葉が出てくるのかを書いてみようと思って書いてみています。
なんだか今日は精神的にとても疲れた日だった。
ここ数日、ストレス負荷高めの情報過多が続いていて、ぽとりと最後に一滴、胸に落ちた情報でわたしのこころのコップがあふれた。いわゆる、キャパ切れというやつだ。
それでも、震えて力が入らない足と、ぼーっとしてる頭でやらなきゃいけない仕事をこなして。
なんだかなあ。
こんなにキャパ狭かったかなあ。
なんてことを思うけどさ。
元気じゃないからこそ、こうなってるんだろうなとも思う。
このキャパの狭さが、こころのコップのあふれやすさが、今自分がしんどいってことの証明なのかもしれない。
それを、一番わかってほしい人には分かってもらうことも認めてもらうことができなくとも。
それでも。
わたしは今日、きっと誰かにとっての「天使」になれた。わざわざ1時間かけてお店まで来てくれたらしい。閉店にしていたけれど、お店の他の仲間に相談して、特別に中に入ってサービスさせていただいた。
相手はもう胸いっぱいって感じで、本当にありがとうと何度も何度も言ってくれて、最後にはハグしてくれた。
こちらこそだよ。
救われたのはわたしの方。
ありがとうございました。
いろんなことが自分のまわりで起こっていて。
精神的負荷はキャパをとっくに超えて、もう精神負荷レーダーの針は振り切れている。それでもやっぱ生きていかないといけなくてさ。時間は止まらなくてさ。
だから、歩いていくしかない。
鬼滅の刃の煉獄さんだっけ。
本当に、その通りだ。
時間の流れは止まらない。
共に寄り添って悲しんで、慰めてもくれない。
時間は、ただ流れていく。
でもさ。
心を燃やすにも、心を燃やすための燃料が足りないんだよ。もう、燃料切れだよ。
それでも。
歯を食いしばって、前を向いて進むしかない。
誰かが遠回しに言ってきたことがある。
鬱になれること、病めることも、ラグジュアリーなんだよって。
本当にそうだよなって思う。
壊れそうで、もうすでに壊れかけてて、それでも止まれないのは、時間は止まってくれないから。寄り添ってくれないから。
年老いていく親の中に流れる時間。
日々成長していく我が子の中に流れる時間。
わたし自身の時間は一時停止できたとしても。
親と子どもの時間たちは止まらず流れ続ける。
それに巻き込まれて、わたしの時間も結局ズルズルと流れていってしまう。
止めようとすることも苦しくて、でも時間と共に歩むことも心が壊れそうで。
もうどうしていいか分からんよ。
しんどいなあ。
なんか。
今日は、そんな感じです。