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SNS系で過ごした10年を振り返って分かったのは「ただここに居る」それだけで安心する人がいる事だった。
人間なのかゴミなのか――。
社会ってやつに馴染めず辛うじて生きている私が、その中で何度となく思ってきた疑問です。いや現在進行形か。
世界にとってはなんの生産性もない自分が、人として振る舞っていていいのか?と、頭の中でぐるぐるする時がよくあります。
その疑問から生まれたのが、このツイートです。
きみがじぶんを「ごみ」だと
— にゃんひー📖note (@nyaanhi) July 1, 2016
おもうならそれでいいよ
そんなこというなよとか
いったりしないよ
ぼくが「ごみばこ」になって
おいでってするだけだよ。 pic.twitter.com/6h5QecRZ84
懐かしいですね。4年以上前のものです。Twitterのアドレスも、変更前のままになっていますね。イラストのタッチも今と全然違うし。
普段決して万人受けする言葉を書いているわけじゃなく、読みにくいひらがなを貫いて、ネガティブさも全開にしている中、奇跡的に多くの人に届いたこれは、
「こんな風に言ってもらえたらな」
が発想のもとだった記憶があります。
この頃からでしょうか。私が「自分にもできる何かがあるのかもしれない」と、おぼろげに感じ始めたのは。
今回は、インターネットのおかげで自分の可能性に気づき始めた「人間」の、ちょっとした振り返りの記録です。
※本当は、深掘りエッセイとして有料での公開予定でしたが、誰でも読めるよう急遽雑記に変更しました。なので、雑記ですが「ですます調」になっています。
※ここから先は、ただの個人の思い出話なので、エトナシサラに良い意味で興味がある人だけ読んでください。それ以外の方は、ブラウザバックを。
逃げ込んだのがTwitterだった
否定否定否定否定否定。
大好きな漫画のオラオラオラオラではありませんが、私は子供の頃から否定の連打を浴び続けてきました。もう何度も言っているので、エトナシの読者さんは分かっていると思います。
「容姿に自信がないなら中身くらいは」
これ、さらっと言われてきたのですが、
「無茶言うな」
なんですよね。見た目すら否定されたり、笑われたり、貶されたり、太っている痩せているの感想を自然な話題かのごとく言われて、中身が真っ直ぐ育つわけないじゃんと、いつも心の中で泣き叫んできました。
真っ直ぐに育った人もいるかもしれませんが、私は無理でした。中身も大きくひん曲がっている自覚がありますよ。腹の中は、焦がしたハンバーグの表面くらい黒いです。
いじめ、暴力、暴言。
あらゆる強烈な体験を経て「黒の権化(ごんげ)」となった私に、現実の居場所なんてなかった。そこでたまたま逃げ込んだのが、Twitterでした。
いろいろ試行錯誤を繰り返した末に、リアルでの情報を伏せて、キャラクターの名前と姿を作って発信を始めた――それが10年前です。
今でもそうですが、TwitterやSNSで「リアルとは違う自分を作る」という行為は、どうやら良い印象は持たれないようで。逃げ込んだアカウントでも、相変わらずびくびくしていたのを記憶しています。
存在に価値があると言ってもらえて
恋愛系の言葉をつぶやいて「幸あれ」を口癖にしたFOAK(フォーク)というアカウントを運営し、おびえながらも地道に発信を続けていたのが8〜9年前。そこから派生して
にゃんひー
という名の猫のキャラクターが誕生しました。(因みにもうすぐ誕生日です!9月8日!)
転機はここだった気がします。
にゃんひーのアカウントで新たな発信をしていると、ぽつぽつ感想が届くようになりまして。ある時、同じ時期、何人かに言われたんです。
『あなたは人を貶すような言葉を、例えば容姿を貶すような意味合いを持つ言葉を一切使わない。そして誰の事も否定しない。そんな考え方というか存在に価値を感じて好きで読んでいます』
言葉自体は一字一句覚えていませんが、総じてこのような内容でした。はっとしました。それは、自分が少なからず意識していた部分だったからです。(過去の言葉をまさぐれば完璧ではないかもしれませんが)
「自分が貶されてきたから、自分以外の事は貶さないようにしよう。というかその発想自体をなくしていこう」
この思想が伝わっているんだと思えて、嬉しかったです。そして、存在に価値があるんだと分かったのも、同じく嬉しかったです。
命を救っているつもりはないけど
存在に価値があるんだと思えた反面、
「ネットでキャラを作ってる奴はリアルから逃げてるだけ」
のような言葉があちこちで見られて、素直に喜べなかったりもしました。正直「作って何が悪い」と思っていました。でも、否定され続けてきた後遺症が、開き直りを許してくれなかったんですよね。
口では強がったり、開き直ったりしていましたが、実際は完全に大丈夫になりきれませんでした。逃げちゃいけないのか、と。
そんな時です。
『電車のホームに立って、最後にお別れを言おうと画面を開いた時、あなたのツイートがRTされてきて偶然見ました。トイレに駆け込んで泣いてます。もう少し生きてみます。急にごめんなさい』
メッセージが届いたのは、朝方でした。恐らくは登校時間でしょうね。だいぶ驚きました。
誰宛でもなく、私は私のために言葉を書いていただけなのに。なんとなく、逃げ込んだ場所で好きな言葉を書いていただけなのに。
知らない所で誰かの命を救えるなんて、微塵も思いませんでした。もちろん、今でも自分にはそんな事はできないと思っています。私なんて、とてもとても。
ただ、救うつもりがなくてもそうなっている場合もあるんだと。結果論ながら、自分という存在が誰かの役に立つ事も可能なんだと。
この時に、初めて思えたんですよね。
存在そのものに価値があり、思いがけず役に立てる事もある――おぼろげに、自分の立ち位置のバミリが見えてきた瞬間でした。
「居るだけで安心します」
以降、創作活動を続ける中でぽつぽつと救われました的なメッセージが届き始めましたが、それに加えて
「居るだけで、めちゃくちゃ安心します」
とも言ってもらえるようになってきました。
居るだけで?と思いましたが、想像すると分かる気もしたんですよね。例えば、いつもと違う不安定な状態になった時、いつもと変わらない温度で接してくれる人がいると、どれほど安心するだろうなと。人に限らず、お店だったり、街だったり。
相変わらずって、なんかホッとしません?
届いたコメントにリプライをするタイプでもなく、ただただ一方的なツイートをしているだけの自分。けれど、その存在に価値を感じてもらえているんだなと、あらためて実感しました。
私が「相変わらず」という言葉を好んで使うようになったのは、この頃からだと思います。noteでも一度語りませんでしたっけ……あ、あったあった。
この記事で「置いてけぼりな気持ちを持たせないのは『相変わらずな人』だけだ」と書いていますが、その思いを忘れず、相変わらずのまま今に至っています。
社会に適応できなかった私でも、
・ただここに居るだけ
・ただ自分宛に書いているだけ
・ただ相変わらず存在しているだけ
これだけで安心を与える事ができるんだと知れて、本当に良かったです。
ずっと苦しかった
「私の心と代わってみろ。どれだけ辛いか」
何度思ってきたでしょう。冷たい態度を取られるたび、気持ちが悪いなどとひどい言葉を投げつけられるたび、吐くまで腹を殴られるたび。
ダメージが蓄積して。
後遺症が残って。
人生が崩れてしまって。
なのに、周りは上から目線で言ってくるんですよ。「死ぬ気でやってないからじゃない?」と。「いやいや立ち向かえよ」と。「好きにしていいんだよ自由なんだから」と。「言い訳しちゃだめだよ」と。「誰かのせいにしてちゃ変わらない」と。
『それができない世界もあるんだよ!』
心の中で叫んでおさめているだけで、本当は言ってやりたかった。できない環境だから、苦しんでいるわけですし。できない状況だから、悩んでいるわけですし。
ずっと苦しかった。
ずっと苦しかった。
ずっと苦しかった。
でも、だからこそ
「そういう『でもできない』『それさえもできない』『言われなくても分かってるけどなかなかできない』に否定しないで徹底的に寄り添う」
これを体現したいと思ったんですよね。
ええと、先に謝っておきます。綺麗事に聞こえたらごめんなさい。えらそうに感じられたらごめんなさい。そこはかとない怪しさが漂っていたらごめんなさい。でも、本気で思っています。
寄り添うとは、特別な何かをするわけではありません。
私は医者ではありませんし、専門家でもありません。なので、カウンセリングまがいな事も一切できません。いろいろな責任を負えないので、救ってやるよなんて軽々しい言葉もかけられません。
「無責任」と受け取られてしまうかもしれませんが、歯がゆいかな、これが個人の限界の現実なんです。
では、そんなちっぽけな自分に何ができるのか?それは、先ほども言ったように
ただここに居る
それだけです。何もできないけど「来たらいつも居る」という安心だけは、私に何かない限り、感じさせられると思います。事実、そうやって10年やってきましたから。
これからも、ひたすらその「何もしないけど居る」を継続していきますよ。
まとめ
いかがでしたか?と問うほどのものは、今回はありませんでしたね。どこの誰やねんみたいな個人の振り返りですから。
但し、ひとつ言えるのは。私が10年ほどやってこられたのは、ひとえに「あなたのおかげ」だという事です。
今こうして、記事を読んでくれている。あるいは、いつもツイートを見てくれている。あるいは、いつもnoteを購読してくれている。
そんな、ひとりひとりのおかげです。
あなたが苦しい時。あなたが悲しい時。あなたが虚しい時。あなたが寂しい時。あなたが切ない時。あなたが迷った時。あなたが怖くなった時。あなたが不安になった時。あなたが沈んだ時。あなたが疲れ果てた時。
私が活動しているどこかの場所で、一瞬でもそれが紛れるなら嬉しいです。癒されたら嬉しいです。
包み隠さずに言えば、私にも命があり生きていかなければいけないため、全てをボランティアでとはいきません。でも、力が出る限りは書き続けますし、ただ居続けます。なので、賛同してくれる人だけ、声援や応援支援をお願いします。
こういう考え方が偽善だと思われるかもしれない事、理想論だと思われるかもしれない事、なんか鼻につくと思われるかもしれない事、承知しています。
ゆえに、最初は深掘りエッセイとして「本当に読みたい人だけ」に向けて執筆しました。でも、一旦公開にしてみました。
全文公開が正解かどうかは分かりませんし、もしかしたらすぐに有料に切り替えてしまうかもしれません。削除をしてしまうかもしれません。
その辺は、なんか、うん、察してください。
ザ・ワールド!(時を止めて逃げる)
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