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忘れられない文章たち

 わたしは、ここ五年ほど、小説を読んで気に入った文章があると写経するようにしている。乗代雄介がずっと写経をしていたという話を、数年前に読み、そのとき保坂和志の『読書実録』なんかも読んで、写経、書き写し、というのは良いもののようだ、とやってみることにした。

 乗代雄介はノートに手書きで書いていて、その方がよさそうだが、わたしはwordで「良文」というファイルをつくって、そこにせっせと書き写していった。
 書写しの基準は、案外厳しく、一冊の本を読んでも一文字も書き写さないことの方がずっと多い。たまに「これは」と思う文章があると、それをメモしておいて、その日中だか後日だかに書き写す。これを、かれこれ四、五年はやっている。
 今では全部で280000字ほどあり、最近はサボリ気味だ。
 そこから、いくつかの文章を紹介してみよう。
 飽きたら、やめよう。



1 小島信夫『美濃』

「『階段』という詩知っている?」
「それは傑作ですか」
「そういうことはどうでも宜しい」 

『美濃』p.331

 こんなことつまらん、よけいなことだ。大ゲサにいっている。そういう人があるかもしれない。ところが、私の経験上、世の中のことの十中八、九まではこんなことなのだ。隣まできてうちに寄らずに帰ったとか、家の前まできて素通りしたとか、会合で自分にだけあいさつをしなかったとか、誰と誰とが楽しげに話していたが、世渡りが上手すぎるとか、こういうことほど人を苦しめ不幸にし、第三者を幸福にするものはない。われられは四六時中こんな感情をどうして押さえようかと思って暮らしている。こんな愚かな感情に煩わされる不幸よりは、死んだ方がましだと思ったことが一度もない人がいるだろうか。 

『美濃』p.23

 上の書写しも、下の書き写しも、実に小島信夫だ。
 「傑作」かどうかを、人は、意外としっかり気にするが、そんなことどうでもよろしいのだ。それに、小説に書かれることは「会合で自分にだけあいさつをしなかった」とか、そのくらいしょうもないことで、しかしこれは実は書くに値する。ただし、小島信夫は、そういった思いを「今、まさに、切羽詰まっている」ようにして、書いた。この「今」にヒミツがある。それは……と書きたいが、また今度にしましょう。


2 コーマック・マッカーシー 『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』

 君はカリフォルニアへ行けば一から出直せるだろうと思ってるだろう。
 そうしようと思ってるけど。
 そこが肝心な点だろうな。一方にはカリフォルニアへ行く道があってもう一方にはそこから戻ってくる道があるけど一番いいのはただ向こうに現れることだ。
 向こうに現れる?
 そうだ。
 つまりどうやって着いたかわからないやり方で?
 そう。どうやって着いたかわからないやり方で。
 どうやったらそんなことができるのかわかんないな。
 おれにもわからない。そこが肝心な点だ。

 『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』p.287

 コーマック・マッカーシーの小説はすごくすごく好きだ。この小説は「ノーカントリー」の題でコーエン兄弟によって映画化され、賞もとったから知っている人も多い。マッカーシーの小説は国境三部作の二つ目『越境』以降、だいぶ気が抜けてきて、これもかなり読みやすい。以前の緊密でみちみちした感じはなくなった。その書き方で最後に辿り着いたのが『通り過ぎゆく者』というのは、すごいが、これについてもいつか書こう。
 マッカーシーの小説を全て読んだわけではないが、おそらくすべての小説に「旅」が出てくる。人物たちは、どこかからどこかへ旅をする。誰かに追われて、誰かを追って。人の生は、誕生から死までの旅だという話は大昔からある。そんなこと当たり前だと笑ったうえで、マッカーシーは面白い。マッカーシーって真面目で重厚な作家だと思われがちだが、めちゃくちゃおもしろい。笑わせようとしてくるところがある。ユーモアがある。それは、押し付けがましいそれではなく、そっぽをむいてぼそっという感じ。不器用なんだけど、それが可愛げだとわかってやってるようなアザトサ。

3 レイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』

 生きていない人たちは存在している人たちである。本当に実在する人たち。わたしたちはわたしたちであるために生まれてきたのではなく、彼ら、逝ってしまった人たちに生を与えるために生まれてきたのだ。わたしたちを軽蔑しながら立ち去るという誇りを持った人たち、そんな彼らは実在する人たちである。そしてわたしたちは、生きた試しがないのだが、生を軽蔑することで永遠を強いられている死者たちのために生きることになる。彼らはわたしたちの不断の賞賛の中で、わたしたちの永久の崇拝の中で生きている。彼らはわたしたちの限りない欲求不満の中で絶えず大きくなる。彼らは、結局、彼らに寄りかかって存在する臆病者、そんなわたしたちの手中にゆだねられている。

 『真っ白いスカンクたちの館』p.315

 アレナスもすごくすごく好きだ。キューバの作家。ほんとうに「熱」がある作家だ。前衛だと思われるかもしれないが、それは熱がそうしてるだけだ。「企み」なんかじゃない。アレナスには「ペンタゴニア」≒「五つの苦しみ」という名で彼が独自に名付けた五部作がある。これはその二作目。あと『ふたたび、海』と『夏の色』が未訳だ。『夜明け前のセレスティーノ』はその一作目。『ふたたび、海』なんて、原稿が三回くらい消失しているのだ。原稿が盗まれたり、隠しているうちに消えたりしたのだ。どういうこと? アレナスはキューバで政府から、カストロから、小説家でゲイだということで目をつけられていた。彼にとって、小説を書くことは、命懸けだった。
 アレナスは見えている世界がわたしたちとは、ちょっと違ったんじゃないか。ほんとうに速い世界に生きていたんだと思う。それは小説の中だけでなく、この現実にも。だからアレナス自身が、ときに、小説の中の人のように見える。生きていればまだ八十代だろう。若くして、死んだ。


 疲れてきた。

4 山下澄人『FICTION』

 いくらでも続けられそうだった。いくらでも思い出せる、というそのことにアンセが快感をおぼえはじめていたから退屈だった。話しはじめる前の沈黙の時間が短すぎたのかもしれない。何をどうしたらいいんだという不安、恐怖、こそが重要なのだけどそれがなかった。もしかしたら準備してきていたのかもしれない。準備して来たことはつまらない。手の内はつまらない。
「何かやれよ」
 一瞬止まった。アンセは考えていた。「何かって何」と聞き返さないのがよかった。聞き返したらだめだ。少しでも安心しようとしたらやる側も見る側も外へ飛び出さない。
 ぼく短時間で汗かくの得意なんすけど
 それいいじゃん。

 『FICTION』p.32

 今、山下澄人がおもしろい。
「FICTION」は、山下澄人が主宰していた劇団の名前で、山下澄人は役者だ俳優だ「外」から小説にやってきた、そのときのことを書いた、といっていい小説だ。
 わたしがこれまでにこのnoteに書き写したいくつかの文章は、ここでいう「何かやれよ」、空っぽになってそこから捻り出した、いや「外」に飛び出したところで書かれた文章だ、ということがわかるだろうか。わたしもそうした文章を書きたい、そうした文章を書くしかない、「内」にこもってこねくりまわした小説は、わたしでない誰かがやればいい。わたしは小説を書いている。これからも、書く。今、その小説を自分で出版しようとしている。
 『FICTION』はやさしい。山下澄人の小説の中で、一番やさしい。最新作もやさしいが、もっと。そして泣ける。すぐに涙が乾いて、笑う。「ラボ」のことも書かれている。この小説に書かれたようなことが、今までに活字になったことがあっただろうか! これは、ホメコトバですよ。しかし、ホメコトバとうものは「薄い」笑
 というわけで、もう読んだ記憶が薄れていてちゃんと書きたいのだが、もう一度読み返したいのだが、わたしはこの本を本屋で買ったのだが、ひょんなことからある会で名前も知らない老婦人に勢いであげてしまい、今手元にない。しかし買い直す金もない。困ったことだ。

5 フアン・カルロス・オネッティ『屍集めのフンタ』

 フリータの長く硬い体がこの後すぐベッドに横たえられる場面を想像すると、僕は憤りを感じずにはいられなかった。学生服を死装束に纏ったまま、重々しい畏怖に満ちた最期の表情でこの世界に、愚か者の手で作られ、取り仕切られたこの世界に別れを告げる姿にはとても耐えられないだろう。平和な口、眼差しの消えた目、まだ訳もなく皮肉を浮かべた鼻、ハエの唸り声のように陳腐な言葉がその上を飛び交う様子はあまりに痛ましい。
 部屋を出る前に僕はナイフをしまい、ベレー帽をかぶり直して哀悼者たちに挨拶した。
「くそっ」こう呟きながら僕が感じた優しさ、慈悲、そして喜びがわかるのは、梁からぶら下がって腐りかけた彼女ただ一人だろう。
 仕方なく階段を下りて抜け目のない日常世界へ、二人して唾でもよけるように避けていたあの世界へと戻っていく僕を眺めていたのも彼女だけだった。フリータと僕、これからは僕一人、やっと心から本気でこの穢れた世界に耐えながら生きてゆけるだろう。 

『屍集めのフンタ』p.314-315

 オネッティについては、また今度書こう。ウルグアイの作家。ウルグアイの作家はいい。フェリスベルト・エルナンデスもいる。

 外は、晴れているが、日が落ちつつある。



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