聴こえない理容師
もともとくせっ毛で、寝ぐせがひどい。頭のかたちがいびつで、絶壁とまではいかないが後頭部はすとんと落ちていて、側頭上部が出っ張っている。ときに電撃ネットワークの南部虎弾のような逆三角形のかたちになる。髪にこしがなく、頭頂部は年々心許なくなっている。
「イチローみたいに」「ベッカムみたいに」と注文していた髪型はもうどうでもよくなってきて、みっともなくない程度に爆発を抑えて短く刈り込み、櫛もドライヤーも整髪料も使わず、手櫛でがしがし掻き上げればそれでよしという状態が理想である。
散髪は月1回がちょうど良い。1カ月を過ぎるとどうしてもあらぬ方向に跳ね上がってしまう。10分ぐらいでささっと刈ってもらえる安い店が良い。
ということで、昼間にサービス料金になるチェーン店に通っている。椅子は2台のみ、理容師はふたり。指名はしない。来店するのはお年寄りが多く、にぎわっている。でも、理容師が定着しないのか、他店に異動するのか、入れ替わりが激しい。
数年前、はじめての理容師に切ってもらうことになった。40歳前後、小柄で痩せていて、短髪の女性だった。椅子に座ると、筆談ボードを持ち出してきて、液晶画面にタッチペンで「どれぐらい?」と彼女は書いた。「刈り上げ6ミリ、1カ月分」と私は書いた。
それから毎回、私は指名しないのに彼女に当たるのだった。客はひっきりなしに入ってきて整理券を発行し、順番を待っている。理容師ふたりのうち、先に切り終えた方が次の客を椅子に案内する。彼女に当たる確率は50%なのに、私は彼女なのであった。
安い代わりにスピード勝負なので、口頭で細かい希望を伝えきれないもどかしさはあった。ずぼらをして2カ月ぶりだけどこうして欲しい、前回よりもここを少し短めにして欲しい、あまり上まで刈り上げないで欲しい、などなど。筆談ボードでもっとラリーしたい。
それでも私は、彼女が良かった。話しかけられることはないし、会話を楽しむがらでもない。切り終わると私の眼鏡を渡し、後ろから鏡をかざして後頭部と左右の側頭部を映す。私が頷いて椅子から立つと、ブラシで肩や胸を払ってくれる。目が合う。お互いに少しだけ頷く程度に会釈して、レジに向かう。
聴覚障害をもつ理容師について、私は検索してみた。ろう学校の専攻科で理容師の資格が取得できる。そうか、今まで出会わなかっただけで全国にいっぱいいるんだ。自らを「ろう者」と呼ぶこと、その意味についても知った。
ウェブメディア『こここ』(マガジンハウス)を知った。ろう者の写真家である齋藤陽道という人が中心となって、ろう者の仕事を取材し連載している。
想えば、ろう者に接する機会はほとんどなく、何も知らない。それでも遠い昔、私は海外で3年間、ろう者の同僚Pさんと仕事をしていたのだ。彼は私よりもずっと年上で、下働きとして雇われていた。私は彼の家をたびたび訪れ、出張にも一緒に行った。あの日々が蘇る。
理容師の女性は、なぜか筆談ボードを出さなくなった。ラミネートされた紙面に「刈り上げする?しない?」とあり、刈り上げる場合のミリ数が1、3、6、9、12といった風に羅列されている数字を指さすようになっている。私はいつも6を指す。
理容師ふたりに、受付担当の女性がひとり加わった。ある日、入店すると空いていたので整理券を発行せずに直接案内され、髪を切った。レジで精算時、昼間のサービス料金ではなく通常料金を受付担当の女性に言い渡された。
どうして?と訊くと、彼女は「入店が1分遅かったです」と満面の笑みを浮かべて言った。整理券を発行していなかったので、打刻された入店時間を確認することができない。通常料金を払い、二度と来るかと思った。入店時にひとこと確認を取るべきだろう。常連をひとり失う方が損失は大きいじゃないか。
あの受付女性に会いたくはないが、あの理容師さんにお願いしたい。髪は伸び、結局私はその店に行くのだった。ときどき髭も剃ってもらう。
彼女は笑顔を見せることがない。どれぐらい切るのかと尋ねられ、私は指で1と5を示し、「1.5カ月分」と言った。彼女は私の唇を読み、指で輪をつくり頷いた。まかせとけと。
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