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えり
2018年9月13日 03:33
ひとはたいてい、「思い入れ」から物語に出逢って、触れる。 のちにそれが好きになるものなのか、あるいは嫌いになるものなのか、それは触れたその瞬間にはわからない。けれどたとえば、本屋で或る一冊の本を手にしたその時、ひらいたそのページにもしも自分が見た光景があったり、いま実際に自分が生きている場所が描かれていたり、感じたことのある感情が記されていたら、そのひらいたページを無意識のうちに目が追い、吸い
2017年5月2日 00:37
たとえばほどいた先に見えるのは、遠い記憶のなかの光景。 今は亡き祖母の家の、その涼しい畳敷きの部屋で。あるいは気ままな独身生活を謳歌する叔母たちが旅や仕事に行ったあとの、ひっそりと静まり返った彼女たちのベッドの上で。タオルケットにくるまった子どものわたしが夢中になって読書しているその脇に積まれていたのは、思えばそのほとんどが海外生まれの物語たちなのだった。 わたしには叔母が五人いて、彼女
2016年8月8日 17:29
2016年8月6日、参加していた熊野大学夏季特別セミナーの二日目のプログラムとして『日輪の翼』新宮公演を観劇した。とても暑い日で、マイクロバスの到着した18時過ぎの新宮港湾緑地は日陰ひとつなく夕陽に照らされ、堤防に繁茂している背高泡立草や、ひめじょおん、ドクダミ、オオバコ、ほかにも夥しい名前もしらない田舎の植物。その夏の茂みから立ちのぼる、むうっとした熱気が、小学校の校庭を憶い出させる広い土の舞
2016年3月13日 18:15
ところでわたしはもう十代ではないし、女子高生でもない。それどころかもうあとすこしで三十歳だ。女子高生だった頃の記憶はちょっと探したくらいじゃ見つからない。まるで、最初から女子高生の経験なんてなかったみたいに思い出せない。きちんと思い出せるのは、今のわたしにとって高校時代よりもひとつ手前の大学生時代のことばかりだ。だからわたしはこの小説のなかで、カズハよりも、お兄ちゃんや三井、ビッチという、三人の
2016年3月12日 19:41
最果タヒの放つ言葉を、わたしは一文字たりとも捨てられない。読み逃せない。それはまるで、〈言葉〉に縛られて、がんじがらめになって、この世界に存在しているすべての〈言葉〉を掬いあげなければならないと必死に信じていた、十代の時みたいだと思う。 わたしが十代だったのはもう17年も前の話で、思い出してみればその頃のインターネットというのは今とは少し違う場所だった。2016年の今に流行っているような、オ