「勇敢な女子高生と、自由な自殺」②/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)
ところでわたしはもう十代ではないし、女子高生でもない。それどころかもうあとすこしで三十歳だ。女子高生だった頃の記憶はちょっと探したくらいじゃ見つからない。まるで、最初から女子高生の経験なんてなかったみたいに思い出せない。きちんと思い出せるのは、今のわたしにとって高校時代よりもひとつ手前の大学生時代のことばかりだ。だからわたしはこの小説のなかで、カズハよりも、お兄ちゃんや三井、ビッチという、三人の大学生たちに感情移入してしまう。それも、わたしのなかに微かに残っている「自分がカズハであった頃」を思い出して共感しながら。わたしも間違いなく、カズハに嫌な顔をされてしまう嘘つきの大人のひとりなのだ。
2、〈想像〉たちの自殺−−家族の中のカズハ
沢くん・初岡との奇妙な下校を経てカズハが帰宅すると、なんと京都で大学生をしているはずの兄の葉介が家のリビングでお茶をすすっていた。七年近く大学生をしている兄は卒業の気配もなく、のんびり屋だ。
兄には恋人がいる。彼女の名前は保坂ほのか。ふたりは高校生の頃から付き合っていて、彼女はやがて兄と同じ大学の医学部に入学した。ところが、この彼女、なんと少し前に兄の親友・三井と一回だけ浮気セックスをしてしまった。
彼女はその浮気について馬鹿正直に兄に告白した。なぜ浮気セックスなんてしてしまったのか。それは、片思いしていた先輩が自殺して自身も後追い自殺しようとしている三井を救うためだった。
兄がとつぜん帰省してきたのは、そんな彼女ともうじき結婚することを、カズハたち家族に報告するためだった。
カズハは、兄の恋人のことを「ビッチ」と呼ぶ。カズハにとって「ビッチ」という〈言葉〉はただの記号、意味のない記号であり、「保坂ほのか」という女に対して自分は安易に〈想像〉しないという意思のあらわれだ。侮蔑的な意味なんて、これっぽっちもないのだった。
私はそもそも、ビッチという言葉に悪意なんて一粒もつめてなんていなくて、マスタードのないまま食べるステーキみたいに、ビッチだよね、って言った。−17
私が黒髪であることと兄の彼女がビッチであること、あんまり変わらないイコールだよね。そこを否定したら彼女そのものを否定しうることになるんじゃないのか。−18
意味付けをしないということ。あるいは、その女に正面から向き合うということ。それはもしかしたら、『死んでいない系のぼくらに』のあとがきに書かれていた、《意味の為だけに存在する言葉は、ときどき暴力的に私達を意味付けする》というあの言葉と通じるものがあるのかもしれない。
〈現象〉はエンタメ。つまり、カズハにとってセックスはエンタメだ。三井を自殺から救うためにセックスを用いたビッチを、カズハは《まともだとおもった》。カズハはしだいにビッチに共感し、好意を抱きはじめる。ビッチと会話を重ねていくうちに、《やっぱり私はこの人が好きだ》《ビッチはおもしろい》と、クールなカズハが珍しく感情をあらわにする。
兄の親友がずっとずっと片思いをしていた先輩が大学病院で自殺して、そのあと情緒不安定になったとかそういう話だって聞いていたし、そしてビッチはそのときそれしかないからっていって、救うために浮気をしたのだ。−19
ビッチのやることは理解ができた。親友を救うために、愛を用いようとしなかった彼女を信頼できるとすら思った。私は愛なんてセックスなんてわかんないけどそう思ったのだ。セックスでなんとかしようとしたならそれは、愛よりも筋の通った手段。感情ではなく現象だから。未来からも永遠に観測できる存在だから。愛は、消える、見えなくなる。あったのかすら、きっとおぼろげになってしまう、たぶん。それなのに結婚とかいう愛でビッチとの関係をつなぎ止めようとするお兄ちゃん。−20
ビッチは〈想像〉そのものとシンプルに向き合う。初岡−クラスメイト間にみられるような、勝手な〈想像〉が相手にとっての負の〈想像〉返しになるという不健康な構造から逸脱し、きらきらしている。安易な〈想像〉=〈嘘〉を拒否し、反抗するカズハにとって、彼女は仲間であり理想形なのだった。
しかし、兄は、そんなきらきらしているビッチを無理やり意味付けしようとしていた。
久しぶりに顔を合わせた兄に対して、カズハは激しく失望する。カズハの目に映る兄は、かっこよくて優しくて大好きだった七年前の兄とまったく別の人間になってしまっていた。ビッチと結婚する、そう宣言する兄の意思と行動について、カズハは嫌悪と不信を抱く。
「ねえ、結婚って本気なの? ビッチなのに? これは決して彼女はお兄ちゃんに相応しくないとかそう言う話ではなくて、単純にビッチなのに? っていう気持ち。つまりお兄ちゃんはビッチであるからこそ結婚したいとかそういう選択になっていない? ひきとめたいとかそういう」−21
かつて三井とセックスしたという〈物語〉を背負っているビッチと、兄は結婚しようとしている。それはつまり、兄は「〈想像〉のビッチ」と結婚しようとしているということになるんじゃないのか。カズハはそれに警告を発しているのだ。ビッチ自身は〈想像〉とは遠く離れた場所でただ静かに存在しているのに、兄と結婚してしまったら、ビッチはその三井との〈物語〉を背負っているばっかりに、俗世的な「ビッチ」という意味付けをされてしまう。ビッチが「ビッチ」になってしまうのだ。
「ビッチそれ自身」は、兄の中の「〈想像〉のビッチ」とは本来まったく関係がない。カテゴライズされるものは、カテゴライズされるいわれはどこにもないのである。結婚というのは、一生を通してその相手をひたすらカテゴライズしていくことにほかならない。
生(ナマ)のものそれ自体をぶつけ合うのではなく、〈言葉〉をとおしてコミュニケーションする世界に身を投じること、それが結婚。結婚すればビッチは単なるビッチであることをゆるされず、〈言葉〉や〈意味〉に隷属して生きていかなければなくなってしまう。
七年前の兄はそんな暴力的な意味付けなど行わない人間だった。傷つきやすく、淡々と生き、誰よりも気を配って話をすることのできる人間だった。カズハにとってかつての兄は、サブカルの世界における自分にとっての小さな神様だったのだ。
《価値観のふりした先入観にまみれて》《それでいて理屈がなくて、なんか偏見をかためたようなかんじ》だとカズハは兄の変化を分析する。《学校でもこういうひとばっかりで私、いつも気持ち悪くて》−−カズハは、〈学校〉でのあの不健康な構造を思い出す。兄はクラスメイトや初岡とよく似た構造に取り込まれてしまっている(カズハはそのことについて、「兄は古びてしまった」と表現する)。そして、《お兄ちゃんは変わったよね。私やお母さんのこと愛していたけれど、愛していると言葉にして言う人ではなかった》と兄の〈言葉〉や〈想像〉に対する冷たい変化を正面から突きつける。
「(略) そしてその気持ちで結婚するんだってこと? 結婚でなにかが死ぬとしたらお兄ちゃんより若くてきれいなビッチの方じゃないの?」−22
「とにかく私はビッチと結婚しないほうがいいと思っている。それはビッチのためなんだけどね。お兄ちゃんはそれでいいとおもっているんだから、勝手にしてもいいけれど」「そうだなあ」「だってビッチのためになると思うの? それ? お兄ちゃんは結局あたえようとした愛を自分のために消費してとにかく幸福になろうと焦っているだけじゃないの」−23
ところで、兄は帰省に際して婚約者のビッチだけでなく、なんと親友の三井も連れてきていた。三井を自殺させないためにここへ連れて来たのだと兄は言うけれど、カズハは仰天する。三井は唐坂家の庭の物置小屋にひとり滞在することになっていたのだった。
三井は、気持ち悪く古びてしまった兄とは少し異なった古び方をしているヘンな男だった。本心でもないことを平気で言ったり行動したりする彼の容赦のなさは、十代のカズハを脅かし、幻滅させる。
けれど一方でカズハは、《そんな勝手な幻と滅を許してくれそうな佇まいで生きる彼が大人であるな、と結局は尊敬をする》。〈想像〉どおりの生身ではないことが露顕しても、三井はそれすら必要経費リスクの範囲内であるのだと、悠然とかまえている。
俺に感情はもうないし、生きているのか死んでいるのかすら曖昧な感覚で、それでも食事をしなければいけない、気づけば眠ってしまっているというそれが、自分を惨めにしていくんだよ。そういうことをもうしなくてよくなればいいのに、とは考える。気持ちでももはやないんだよ。だた、そっちのほうが合理的だなあと思うんだ。それを止めているのがあの二人のこと。死なれたら嫌だろうなと思うとね。−24
「孤独でない限りは感情で殺されることなどないんだ」三井は言った。「簡単に絶望で片付けられるなら楽だ、感情という形でこれが提供できるならいくらでも、友人にぶつけられるがそういうものではない」−25
三井はいったい何モノだろう。
三井とは、〈言葉〉そのものである。と、ひとまず仮定できるだろうか。
三井だけでなく、三井が恋していた先輩もまた、〈言葉〉そのものだったのかもしれない。物語の後半、カズハから自殺した先輩について訊ねられた三井は、先輩のことを「なにも考えていないような人」「だからいつ消えてもおかしくない感じ」だったと説明する。
空疎でいつ消えてもおかしくない存在。それはきっと、名前という〈言葉〉をつけなければ、ある日突然ふっと消えてしまう。三井たちのいる大学病院では、自殺志願者を集めて、自殺に失敗した人間がどんなに死なせてくれと言っても強引に治療するというサークルをやっていたらしい。先輩もそこの一員だったけれど、しかし結局は負のループに囚われて自殺してしまった。生きて頃の先輩のその日常は、毎朝目が覚めたら決めた朝ごはんを食べ、研究室に行き、ほとんどしゃべることなく昼まで過ごし、昼食を摂り、また研究室に戻る。夜帰宅して夕食、それから風呂、就寝。そのくりかえし。ただひたすら、くりかえし。
だんだん、私は細い糸をただ登っているだけのような気がしてきて、いつ終わるかもわからない。いつ始まったのかもわからない。ただ登らなければいけない気がしてそれすらも、間違いなのかもしれなくて、手を止められなかった、景色は何にも変わらない。そうしてときどきふっと、糸が見えなくなるから、ああ、ここで落ちたら死ぬだろうな、それだけはわかってしまう−26
引用24・25における三井のつぶやきと、26における先輩のつぶやきは、生のルーティンとそこからある日ぷっつりと脱落してしまう予感をめぐって、とてもよく似ている。
とくにふたりは〈食べる〉という行為に執着している。というより、そもそもこの作品全体が、何かを〈食べる〉行為に埋め尽くされている。
〈食べる〉とは一体なんだろう。〈食べる〉ことは、自己のなかに自己以外のものを取り込むことではないだろうか。自分を別の存在に変化させる可能性を取り込むこと。それは危険であると同時に、〈味わう〉という過剰な欲望をもわたしたちのなかに発生させる。〈味わう〉という官能的な欲望に目くらましされて、その危険性は隠蔽され、まるで当たり前のことのように〈食べる〉という行為は、ひとびとに受け入れられる。それから、食べることは、わたしたちのなかにある空洞を無我夢中で満たしていく行為でもある。《空洞。沢くんの「まあいいよ」を思い出した。私たちはもう、空洞を愛ってことにしないといけないのかな」》−P125、《空洞なんだよと三井さん》−P129)。
内と外の境界、その唇で、食物を取り込む官能的な反復行為は〈食〉は、〈言葉〉がつくられていく過程と少し似ている。あるいは〈恋〉ともよく似ているかもしれない。「きみを食べちゃいたい」などという陳腐なセリフが恋の場面で使われる瞬間が、これまで何度かあったはずだ。
きみを食べて、わたしはきみを、わたしの一部に変換させたい。きみ、という語を〈言葉〉に置き換えた時、それはとてもしっくりとする。
日々の生活における反復、そのすべてに、三井たちの生の糸を切るはさみは潜んでいる。カズハはそれを《食品添加物は体に悪いとか、死をよびよせるとか、そういう記事を読んだあとでレンジに冷凍パスタ放り込むようなそんなかんじですかね》と例えもする。〈言葉〉あるいは〈想像〉たちの自殺は、反復行為とそれにまるわる隠蔽行為のあるかぎり促進される。〈言葉〉が〈言葉〉によって追い詰められること、それはまぎれもない自殺なのだった。
ビッチが三井に対して行ったのは、そんな〈食べる〉行為を隠蔽するための〈味わう〉という官能的な隠蔽行為=セックスだった。〈食べる〉行為によって自殺願望を煽られる三井をとにかく一晩救うためには、自分を〈味わわせ〉て、〈食べる〉行為のもつほんとうの意味から目を背けさせるほかなかったのだ。
けれど、その隠蔽行為(エンターテインメント)が通用するのは一回きりだ。ただ、その一回きりは、あらゆる場所で反復的に、発生しては消えていく。そのエンターテインメントのおかげで、物語の後半、カズハと初岡も、自分たちのなかに突如わきあがった〈自殺〉の衝動から逃れることができたのだった。
私たちはパフェとホットケーキを食べた。私は三井の皿からホットケーキをフォークですくいとって、ぼたぼた机にシロップを落としながら口に含む。じゅ、と甘い感触が溢れてひろがる。私は三井にありがとうと言ったけれど彼はもっと食べていいと言うし、でもすでに8割がた私たちが食べているのだ。そのことをどう指摘しても三井は困ったように笑う。「食べる気なくしたの?」「まあそういうとこだね」 三井はそれでもなんだか冷静で、泣いたことも勝手になかったことにしているし、私もそれに合わせている。初岡だけだ、いまだにそれをふまえた態度をしようと、黙ってもくもくとパフェを食べるし、私が能天気なことを言うと足を蹴る。「なんなのさっきから」と私は言ったけれど、初岡は無視した。なに、本当に何なのそれ。 「三井さん、本当に大丈夫なんですよね?」「大丈夫、いやなんていうか俺、ひさしぶりに、外の空気を吸った気がしたよ」−27
「あー、日本語にすると超月だからね」「日本語にするのやばい! おいしい中華屋さんみたい!」−28
明日、とりあえず一発ナツを殴ろう。みんなの前で殴ろう。予定決めたらすっと楽になった。多分、いい夢が見られるよ。からあげもおいしかったし。−29
女子高生はよく食べる。それも〈味わう〉ことに極上の価値をもとめてよく食べる。けれど、それは単純な行為などではなくて、〈食べる〉こと、〈言葉〉が安易に意味づけされカテゴライズされ、意味の奴隷になってしまうこと、〈言葉〉が〈嘘〉になってしまうその瞬間を隠蔽しなければとてもじゃないがまともには生きていけないのだということを、本能で感じ取っているからなのかもしれない。
物語の終盤で三井はカズハと初岡にパフェをおごり、ホットケーキも食べさせる。〈言葉〉として自殺の危機につねにさらされていた三井は、ラストではビッチのように、カズハたちに〈味わわせ〉る側に転身する。数日の物語のあいだでカズハたちとコミュニケーションすることにより三井は、隠蔽行為を受ける側から与える側へ、〈言葉〉から〈現象〉へ、エンターテイナーへと変化したのだった。
〔引用〕
17 … 『十代に共感する奴はみんな嘘つき』(文學界2016年4月号所収)P119
18 … 同上P119
19 … 同上P121
20 … 同上P122
21 … 同上P120
22 … 同上P121
23 … 同上P123〜124
24 … 同上P129
25 … 同上P130
26 … 同上P146
27 … 同上P153
28 … 同上P155
29 … 同上P155
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