不思議話(1章1) 過去世の感覚、声なき声など
不思議話シリーズ、導入に入ります。
※不思議話シリーズのツリーはこちらに掲載。
なお、こちらの執筆物は24年7月頃のものですが、そのまま貼り付けています。出版するときには、新たな心持ちで再編集します。
1.自己紹介
まずは自己紹介をしておこうと思う。
私は一般家庭から僧侶となったものである。
特に継ぐお寺があった訳でもなく、自ら進んで僧侶となったものである。お陰様で「今どき珍しい。何故?」と聞かれることばかりである。
ところが、この理由こそが本章にて説明したい「わたしと不思議なこと」という話と直線状にある話なのである。そこで、自己紹介をもって導入とするものである。
1-1.過去世の感覚や天声と共に
神秘的なものを懐疑する気持ち
「序」にて少し触れたが、
私はこうした不思議なことや宗教といったものに対して、むしろ非常に疑い深く生きてきた。それはそうであろう。過去の色んな伝説や、今存在する訝しい霊能者の話など、どう見ても迷信であったり、勘違いのようなものばかりであるように思われる。
加えて私は1996年の生まれである。
これが何を意味しているかといえば、前年1995年はオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年だという背景に生きているということである。そうした宗教的なものや神秘的なものに対してより一層不信感が抱かれ、あるいは嫌悪されるような時代のなかを育ったものである。
故に、この時代の多くの人が、強固にそうしたものを遠ざける気持ちと、私のその気持ちとはそれほど異ならない。
神秘的なものを確信する気持ち
ただ少し異なった点が、わたしにはいくらかある。
私は単に「疑い深い」というだけではなく、その反面「どうしても疑いきれない」人間であった。それが何故かといえば、その最たる理由が「私自身が過去世の感覚や一部の記憶と共にあったり、ときどき天啓のようなものを感じ受けてしまう子供」だったからなのである。
現代人からすれば訝しいことから始まるのでどうにもならないのであるが、これこそは私にとっては逃れられない紛れもない事実であって、またそれを最も傍で見ていた両親が感じるところであると思うのである。
幼少期:神秘的な経験の例
何歳からかと言われれば、それがそれほど明確ではないのであるが、少なくとも3歳頃にその自覚があったことは明確に覚えており、天啓(?)もあったり、自身の過去世も、ごく普通の記憶として混在していたことを覚えている。
私からすれば、それがむしろ普通のことであるから、周囲の人間がおおよそそうではないということが分かっていなかったし、これが当たり前だとすら思っていないような状態で、普通にその通りに生きていただけのことである。
・僧侶の過去世と断食
その主たる記憶は僧侶であって、山中を駆け巡っている僧侶の姿が最もよく近くにあって、断食したりしたことを覚えていた。その彼が、この身体は過去世の断食によって得たものが反映されているから、周囲がいかように言おうとも、そのまま生きればよい、と言っているものだから、本当に食が細く、親や親類が実に心配して食べさせようと試みていたが、まだ言葉を話せぬ幼児ながら、内心でそのことを説明していたものである。
・甕棺、前方後円墳など
他にも(今思えば)不思議なことは沢山あって、例えば、あるときにはテレビで吉野ケ里遺跡の放送があったときに過去世の私が歓喜し、その甕棺に食いつくようにはまったり、当時の生活をよく思い出していた。庭にあっては、前方後円墳を作り、石を積み、掘に水を流して、満足していた。ここで面白いのは、それを作って何をするかといえば、周りをトミカ等で回って遊ぶのである。
・大坂城、俳句(和歌)など
他にも、大坂城に初めて訪れた際に、落城の景色が浮かび、当時の感覚を思い出したり。和歌を詠もうとするも、幼児なりには5・7・5しか文字数が追い付かず、代わりに幼児なりの俳句をたくさん詠んで、書きつけ続けてみたり。豊臣秀吉や明智光秀の辞世の句を好んで何度も書きつけたり、大坂城落城の当時の記憶のままに恐ろしい漫画を描いてみたり(首を切断など)。
今思えば、普通ではないということが理解され、母親の苦労を想うものである。
【コラム①】生まれ変わりのしくみ(一部)
ここで、今の私であるから分かるようになった、
「生まれ変わりのしくみ」の一部について説明しようと思う。
(詳しくは以下noteより)
何故、前方後円墳を作りながら、トミカ等でその周りを回ったり、僧侶の記憶がありながら、その事情を親に言葉として説明できないのかということを説明しておこうと思う。
これを端的に説明すれば、
この身というものは(皆さんも)「過去世までの私と、この身の私が、あたかも二重螺旋構造のように合わさって出来ている」ものだというのが真実だからである。
後にも説明するが、わたしはあるときから、そうした私自身のことを信じられなくなり、自分自身で疑い続けてきたのである。そこで、これはあくまで、この当時のことが長年理解できずにいたが、後になってわかるようになったものである。
輪廻転生が信じられなくなっている理由
この「過去世があるならば、なぜ初めから前世のように大人のような状態から始まらないか」ということは、恐らく世の中で輪廻転生が信じられなくなっている理由の大きな一つだと思うのである。
このように、輪廻転生が信じにくくなっている理由というものが、いくつか代表的に挙げられるように思うので、これをひとまず挙げてみる。
生まれ変わるならば、
・なぜ、その当時のままの記憶で出てこないのか。
つまり「そのまま出てくるならば、いきなり言葉も話せるのではないか」、
「いきなり大人のようにして生きられるのではないか」、といった疑問である。
・なぜ、過去世の記憶は忘れてしまうのか。或いは、なぜ過去世の記憶を思い出す人と、忘れている人がいるのか。
・生まれ変わるとすれば、元の墓にたましいがいるとして、そこは空っぽになるのか。
・他宗教では生まれ変わりを言わない宗教もあるが、どうなっているのか。
・輪廻といえば六道が有名であるが、本当に地獄など存在するのか。
なども挙げられるのではないかと察する。
これらの疑問はもっともなことであり、私自身においても大きくなって分からなかったことであるが、僧侶となってあれこれと経験したり学んでいくうちに、わかったであろうことである。
過去世と今世が二重螺旋構造のように合わさって出来ている
その主たる理屈が、先程簡潔に説明した、
「過去世までの私と、この身の私が、あたかも二重螺旋構造のように、合わさって出来ている」ということである。
※もっと言えば、たましいとは何かということまで説明すべきであるが、それはまた詳細に説明するとして、ここでは一旦、「人はたましいと肉体がある」ということにしよう。(※インドではこれを業と説くものであるが、業といっても差支えはない。言語の問題である。)
たましいは、
もう少し言い換えると「経験体・記憶体」みたいなものである。
(喩え)ゲームのキャラクター
例えば、何かのゲームをしているとして、キャラクターを操作したとする。そのゲームの中で、キャラクターと一体になりながら、プレイヤーの経験・記憶も蓄積する。そして、そのゲームを終えるとき、キャラクターは消えるとしても、プレイヤーのそのキャラクターを操作していた経験・記憶はそのまま蓄積する。
たましいと肉体とは、おおよそこのような関係である。
無論喩えであるので少しは異なる。
(喩え)おでかけの記憶
別の喩えをするならば、おでかけ/旅行だとしよう。
沖縄に旅行をすれば、沖縄での実体験のあと、帰ったあとは記憶がそのまま蓄積する。そして次に北海道に旅行をすれば、やはり帰宅後はその記憶がそのまま蓄積する。
その記憶同士は別物であって、沖縄の記憶が北海道に変換されるわけではない。しかし記憶には一連の繋がりもあって、北海道の最中には沖縄の記憶が活かされる。
たましいと肉体とは、おおよそこのような関係である。
しかし、一般に生まれ変わりというときには、
あたかも前回の命がそのまま次の命に変換されていく、
といった理解の仕方をする。
それが故に色んな矛盾が生じているのである。
※ところが、上記のような理解であることでいくらも矛盾は解消する。
・お墓の中は空っぽにならないし、
・以前のたましいは、そのたましいとして別に存在し続けるし、
・それがキリスト教などで言えば、死後のたましいは生まれ変わらず永遠にある。
少し話が脱線してしまっているが、
たましいと肉体とはこのような関係であり、プレイヤーがキャラクターに乗り込み、一体となってゲーム空間を活動するように、そのような「経験体・記憶体」のようないわゆるたましいが、この物質世界の肉体が出来てくるときに、そこに一体となって交じり合ってくるのである。
あちらの世界ではそうしたプレイヤーがうじょうじょとひしめいており、こちらに受精卵が出来て一定程度成長し、受容体としての器が出来てきたときに、稲妻が空から今か今かと落ちようとしているように、その器に入り込むのである。
物質の肉体でも、男性が女性に、或いは精子が卵子に、入り込むような構造と同じで、あの世がこの世に入り込んでおり、たましいが肉体に、入り込んで生命が成立するのである。
そして精子と卵子の遺伝情報が、二重螺旋として交じり合って一つとして機能するときに、子の情報も卵子の情報も両方が真実として、片面が発現したり両面が発現したりしながら生きていくのと同じように。
たましいと肉体は二重螺旋構造のように交じり合って生きているというのが真相なのだと、今では説明することができる。
結論:半面は過去世まで連なる私、半面はこの身の私
故に、
・半面は過去世まで連なる私であり、
・半面はこの身の私であって、
その両面が真実であり、
相談しながら生きているような状態なのである。ただしこの世界は、物質的世界であるから、物質としての肉体の方面が主として機能している。
このような状態を理解してみたときに、
前方後円墳を作りながら、その周りをトミカで回るという一見怪奇的な現象を理解することができたのである。
※残る疑問への回答はまた別記…
あとは何故思い出す分量が、人によって異なるか、何故そもそも忘れてしまうかということであるが、これについてはまた別記しよう。
軽く説明するならば、この世界ではやはり肉体の方が強く出るものであり、また異性の気持ちは理解するのが難しいことと似ているということであったり、プレイ中/おでかけ中/交合中に必死な間などは、それ以前のことは思い返しづらいこと、などを比喩として軽めに答えておこう。
そのような仕組みがあって、私は色々と過去世と混濁しながら幼児期を生きていた。
【コラム②】声なき声を聞き、姿なき姿を見るしくみ
もう一つ、昔から言うような「天声が聞こえる」であったり、「亡き人の声が聞こえる」といった伝説や、出来事について、わたしの思うことを記しておく。
前提:その大半は、単に創作であったりするケースが多いと思われる
昔から有名な僧侶に関する伝説が沢山存在したり、いろんな逸話が存在するが、真実や重要なことが紛れていることは当然としても、伝説や後の創作や願いというものが多いというのが実際のところであろうと思う。
また現代でも、そうした声なき声を聞くと自称している人も多く見られるが、本物や本当のことが紛れているとは思われるが、大半は勘違いや、自己暗示の類、または0章でも記したように「そこには高低があり、低いものを聞いている」という類が多いというのが実際のところであろうと思う。
それを断った上で、上にも記したように、本物や本当のことというのも、また実際にあるというのは、この身や、また近しいそうした人間をもってわかるところである。
・どのようにして見え、聞こえるか
では、どのようにして聞こえるかという話をしてみようと思う。
実際にはここにはいくつかのタイプがあると思われる。例えば先程の音感の話でいえば、音感には相対音感と絶対音感があるように。この声なき声を聞くということや、見えぬものが見えるということにもこうした類型があると思う。
1.相対音感的な感性
まず相対音感的な方面から説明すると、つまりこれは私のことでもあるが、私がどのようにしてそのようなことが起こるかというと、わたしは実際の音声として見えるとか、実際の姿で見えるということは全くない。
しかし、2章以降で様々な事例を取り上げていくように、普通ではありえない不可思議な経験をするものであり、その中で聞いたり見たりすることがある。
それはどのようであるかというと、簡単にいえば、意思や空気感のみが伝わってくるものであり、「このような人が、このようなことを言っているな、現れているな」というのを感じるようなものである。
例えるならば、Google翻訳のようなものであり、向こうが実際に話しているのであろうが、それがそのまま聞き取ることができるわけではなく、瞬時に翻訳されて、その意味だけがぽっと心に言葉として出てくるようなものである。その際、あちらの何となくの姿やようすを感じることもあれば、それもないときもある。
見えることについても同じようなもので、普段例えば親の顔を思い出すにしても「ぼんやり浮かぶがわかる」といったことになると思うが、全くそのような感じであり、はっきり細部はわかるわけではないけれども、大体このような人・姿であるとか、そういうことが受け取られるというような感じである。
例えば、夢である人物が何度も出てこられたことがあるが、そのときにははっきりその人物と理解して、喜んでお話もしているのであるが、夢から覚めてみると、その姿が細部までは全然わからず、しかし誰であるかははっきりしている、まさにそのような状態である。
2.絶対音感的な感性
しかし恐らくではあるが(自分が体験していないのでわからないが)、相対音感ではなく、絶対音感があるように、本体そのものを見聞きするという感性が存在すると思われる。
私自身はそのような磨き方はされていないが、そのような状態の人を今生きている近しい人でも、一人全く信頼に足る人を知っているし、明治以降の近現代の人物の中でも、確実にそうであろう人を二人は認識している。
例えば、山崎弁栄という明治・大正期の浄土宗僧侶がいるが、彼は阿弥陀仏をはっきり見ながら生きており、釈尊と直接話しながら生きており、かなりの超人的エピソードを大量に残して死んでおり、数学者の岡潔なども直弟子となっている。例えばある水のほとりを歩いているときに、あそこに水死体があるから引き揚げてやれといい、本当に水死体が見つかったり、そのような、そのようなことを凌駕したような話は数知れない。
そのような感性では、見ているところ、何となく感じ取るというような程度ではなく、はっきりそのものを生々しく見たり、生々しく聞いたりしているようである。そのような世界が見えているときには、この世界が見えていないとも語られており、そのようなのであろうが、これは私もわかりえない感性の領域である。
その感性においてもより厳密なことを言えば、言語に関しては、完全にそのままその言語で聞こえるというのではなく、霊的な領域はこころそのものの世界であるから、意思疎通のダイレクトな世界であり、この世の制限が外れた世界なので、言語は自由に変形・翻訳されて聞こえるであろう。
この時代ようやく物理的な制限も大分外れてきた時代であるから、AIの変換などで、同時に本人の声で翻訳されるなどということが、物質的にも実現しているから、この状態は全く想像しやすいのではないかと思う。
姿においても同じであり、あちらは物質世界ではなく、それ以前のこころの中の世界であるから、一様な姿ではなく、自由な姿を見せることが可能であるだろう。年齢も行き来し、服装なども自由に変更可能であると思われる。ただし、こころの世界であるから、声もそうであるが、こころの状況はダイレクトに反映され、この世で顔としてはいい顔をしてみたり、元気な声に装うなどは、ほとんど出来ないものであり、そうした能力をこころとして磨いた者は、そうしたことも出来るという状態であろうと思われる。
このように、絶対音感のように、生々しく見聞きするという感性も存在すると思われる。
3.思い込み・自己創作
これが多いのではないかと思っているが、単なる自己暗示、思い込み、創作の類である。また場合によっては、本当に幻覚を見ているという状態もあるであろう。薬によって幻覚を見たり、或いは、精神的ストレスから幻覚を見たり、脳機能の問題で幻覚を見ているものもいる。これらが実に紛らわしく、世に溢れている。
無論、本人に向かってそうだなどということは、まずないので安心されたい。一度だけ、本人を覚まさせるために言ったことがあるが、その彼女は恐れて、謝罪されていたことを付しておく。
幻覚ではなく、自己暗示によっている人は、なかなか、それを自覚することは難しいのではないかと思う。よくスピリチュアルな界隈の人を見ていると、現実世界に単に適応できなかった方が多く見られ、その救いどころがないことから、そうした非現実の世界にさ迷い込んでいるのをよくお見受けする。僧侶においても、現実で説法することがない者ほど、祈祷だとか供養だとか祈りだとか言うことになることをよくお見受けする。
これらに関しては単に批判しているのではないし、
現実世界に適応できない=駄目だ、と言っている訳ではまったくない。
どちらかといえば、この人々の現実世界の方がおかしいのであって、大多数の健全とされる人々の方が、あまりに眼が暗く、たまたま適応できる者が大多数の波の中で生きているだけのことであり、世の中の方が変わらなくてはいけない問題であって、どちらも全く平等、対等であり、システム上の問題だと強く伝えていきたいと思っている。
ただ、この感性どうこうということにおいては、本当にある感性を埋もれさせてしまうことになるので、そうしたものは、自己暗示や創作として結構な数存在することを注意喚起するのみである。むしろそのような人が健全に暮らせる、心豊かな世の中の出現を願い、努力するものである。
あともう一点は、相対音感的な感性では、普段なまじっか本当にそうした体験があるが故に、普段の自分の妄想や想像と、完全に切り分けることが難しいという問題がある。これは私がよく実感しているところで、今自分が見聞きしたと感じるものは本当か、自己の意識の形成かとよく問うが、なかなかその判断はつき辛いところがあり、故にわたしはあまり口外しない。
よほどの事態であるときや、あるいは確実に不可思議なことである内容だけ口外するものである。
ただそうした不思議な出来事に巻き込まれ続けた結果、どの程度が本当に見聞きしているか、という境目は自分なりに70%の程度で感じている。
相対音感でも、まだ完全ではないような状態であろう。磨けるのかもしれないと思っている。
4.テクニック
ここからは、もっとやっかいなパターンであるが、そうしたことも熟知したうえで、お金儲けや自己承認欲求のために、意図的にそうしたテクニックを屈指して、信じさせようとする者が存在する。
そのような者は、どういうことを言えば当たるか、当たらなくても流せるか、当たる人だけを相手に出来るか、というテクニックに熟達しようとしているので、このような者は実に手ごわく、実に難しい。
絶対音感レベルの感性の者が相手になれば、恐れおののかせて改心させることも可能であろうが、それでも、欲心が強すぎれば改心することなく単に逃げていくであろう。
わたしにはそのようなことはできないし、完全に見分けることも難しく、現状世間に毛の生えた程度の感性しか持ち合わせない。そうした人がいることを注意喚起するものである。
5.感性はあるが理解は低い
これもまた、もう一つやっかいなパターンであるが、相対音感的な感性や、絶対音感的な感性を持っているからといって、その見聞きするもの自体や、その理解できる範囲、解釈の程度というのは、その感性とは全く別問題であるということである。
例えばいくら絶対音感が縁あってあるといっても、どの曲がよく構成が練られているかなどの理解とは全く別問題であり、感性がいくらあっても、その心の程度に応じて触れるもの触れないものがある。感性よりも、人間性や理解力の方が基本的に重要な問題である、という当たり前の話である。
仮に感性が敏感で、絶対霊感のようなものがあったとしても、その人間の人格や理解力が低いならば、神と呼ばれるような階層の霊などは話しかけてもいかないし、反対に感性が全くなくとも、人格や理解力が高いならば、神と呼ばれるような階層の霊が働きかけていって知らず知らず意識に何かが植えられたりするものである。
このように見聞きするものの高低もあるし、あとは理解や解釈の範囲の高低もある。同じものを見聞きしたとしていたとしても、その理解の範囲外であれば、それは目や耳を通過してしまう。そうなると無闇に感性だけがあって、感じたままに理解や解釈を話すものがあれば、一応実物であるからこそ、その低い理解や解釈だけが出回ってしまう、伝わってしまうことになる。
しかし、それでは感性が全くないが、理解力が高い者などから見れば、全く不合理であったりするようなものになってしまい、そこに溝が生まれてしまう。そうして世の理解力の高い者などがそうしたものを毛嫌いしてしまう羽目になり、ますます社会とそうした霊性の事実が、分離し遠ざかっていってしまうのである。
感性さえ縁あってあれば、普通のことと変わらないことであるからこそ、理解力や解釈の高さが重要なのである。しかし理解力などの力は脳の力であって、純粋な感性を邪魔することが多い力であるから、その二つが同時に成立することは稀有であり、この分断は難しい問題なのである。
昔のように、死がすぐそばにあって、命に敏感であった時代には、そうした純粋な感性が普通に敏感な者が多く、それがよくあることであって、霊性的な方面が世の常識であったから、理解力ある者と並存できていたのであるが、現代ではこれが実に難しい。
科学の発展により機械が感知しはじめる、―あたかも眼鏡が眼を補い、車が脚を補うようになったように―時代を心待ちにするばかりである。
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