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日本神話の真実(大倭の伝承)

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(以下は、旧バージョン)

詳しくは以下PDFまで
https://drive.google.com/file/d/1oc-l7zn2rh04wr0pIs9lpuV5HtEqrIb-/view?usp=drive_link

登美ヶ丘(大倭)あたりの伝承として、
・出雲とは三輪桜井の辺りのことであり、奈良が古代大和湖であったころに、いつも雲が湧きたっていたことから、出雲と呼ばれていた。
・湖の反対側に、生駒山辺りにも日本人の祖が住んでおり、農耕以前は高原に住んでいて、これを高天原/やまと(山の入り口、山の戸。大親元の訛り)/生駒山の長い曽根=長曽根(訛りでナガスネ)と呼ばれていた。
・出雲にあるとき、クシイナダヒメという美しい娘がいて、周辺の邑からの略奪婚に悩まされていたとき、スサノオが高天原(=大倭)からやって来てこれを救い、出雲から大倭(今の登美ヶ丘)に帰って、王として即位。その子がニギハヤヒ(にぎはう+日)と名付けられ、優れた王となって、後にそれを讃えて大国主/大物主/オオナムチ/大年神etcと呼ばれるようになった。
・その子孫がやまと/長曽根の王として継承され、その称号として長曽根日子(いわゆるナガスネヒコ)を継承していた。
・ニギハヤヒの系統の一方、兄弟たちや親族が全国にも分散。現地民族と交わっていった。その一つに、高千穂勢があり、いわば先祖は共通であったが、あるとき神託によって四兄弟で大和へ東征。あまりに大和が強く苦戦した。最後に大和に入り込んで相対したとき、金鵄(光)が出現し、神意を理解して、長曽根側は高千穂勢を受け入れることとした。このとき、先祖が共通のものであることも分かった(いわゆる十種神宝の照らし合わせ)。長曽根日子は、大和側から妹(異母かと思われる)を差し出し、神武天皇を婿として迎え、自らは隠居。しかし日に日に家臣の不満が募るのを知って、尊い心から自らは自決することを選択。これが神武東征であり、後に歴史が改竄されて今の神話となった。
・長曽根の地は、金鵄の出来事から鵄(トビ)と呼ばれるようになり、登美ヶ丘となって今に名を残している。
・この長曽根日子(大国主の子孫、大国主という称号も継承していたと理解すればよりわかりやすい)の国譲りこそが、いわゆる大国主の国譲りであり、またニギハヤヒの国譲りである。国譲りの後、長曽根日子の系統は全国へ散ったが、出雲という名称をひっさげては今の出雲へ移動した。他は東北が有名。
・このクシイナダヒメが、自然信仰の時代において非常に優れた巫女であり、また日本の母であったが、高千穂勢の神話の中では天照大御神として認識されたものと考えられる。実は、クシイナダヒメの別称。ちなみにこう考えると、天照とスサノオの姉弟婚のような誓約も、納得できる。
・長曽根日子(ナガスネヒコ)は継承された称号であったと述べたが、恐らく大国主/事代主などの名称も、天皇の称号を継承するかの如く継承されたものと思われる。そう考えると、神話上ずっと出てくる大国主の時間を無視した矛盾が解消される。
・この東征において、葛城の王(これも大国主ニギハヤヒの子孫の系統)は哀れに思って、神武らに味方したと伝承される。これが八咫烏と呼ばれて今に至る。いわゆる賀茂族であるが、賀茂とは神の訛りであると思われる。神山/神川/神郷などが、かもやま/かもかわ/かもさと等と呼ばれていたことから、残った音かと思われる。長くなるので、ここでは述べない。八咫烏=賀茂(神)建角身、その娘玉依姫、その息子賀茂別雷命/アヂスキタカヒコネ/カモノオオキミはこの系統であり、孫の大直禰子命が三輪大社に大物主を祀るように天皇に後に命じられ、三輪(=神)氏や賀茂(=神)氏がここから出たと見受けられる。ちなみに、タケミカヅチは=賀茂別雷命と見ると、一気に見えてくるものがある。

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