あちらにいる鬼
私だったら──、両親とその不倫相手のことをこんなにも淡々とした熱で書けるだろうか? 小説は読むもので書くなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた私が見様見真似で物語を書き始めた2021年の秋、なにがきっかけかわからないけれどまずは文庫本を買った。
『不倫はダメ』確かにそりゃそうだ、傷つく、その傷は首を絞められた後みたいに手は首から離れてもその記憶は消えることはないみたいに一生消えない記憶となる。
だけども、故意的にではなく、もう本能でどうしようもなく身体の真ん中から自分が手を出すみたいに相手を求めたとき、それを責めることができるのだろうか? とめることができるのだろうか? 以前、言いようのない身体の真ん中が疼くように人を好きになったことがある。もはや常識とか立場とか収入とか外見とか全部を超えて、自分では理解できないような自分が顔を出した。それは言ってしまえば性的なことかもしれないけれど、自分ではもう抑えきれないようなその人だけに感じる何かだった気がする。例えるなら確かに『鬼』なのかもしれない。
この本に出てくる白木がもてる理由がわかる。多分、ほっとけないのだ。子供を宿したわけでもないのに母乳が出てしまうような母性を溢れさせるのだと思う。モテる人というのは案外イケメンとかいい人ではなく、どうしようもない、不甲斐ない男で、それでも私がいなければ、と思わすことのできる人だと私は思っている。人は弱い。強さに憧れるものの、やはり惹かれてしまうのは、自分の存在を必要としている誰かの存在なのだと思う。
そして、私はこの本を必要としている。起承転結ではない、ハッピーエンドでもない、それでも、どのページをめくっても、根底にちゃんと思いがある。それが正しいかどうかは別として。嫉妬を超えた思いがあるのだと思う。
そんなふうに他人と向き合うのは欲を超える覚悟がいる。
3人とももうこの世にはいないのに、今でもその思いはこの本を通して私の中に入ってくる。そして私が書きたい小説もそんなふうに誰かの中に入りたいのだ。
静かにそっとだけど熱を持って。
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