川上弘美『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』(毎日読書メモ(517))
川上弘美の近作『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』(講談社)を読んだ。「群像」に2020年から2023年にかけて不定期連載。
六十代の小説家八色朝見の一人称で語られる物語は、コロナのちょっと前から5類移行に至るまでの3年余を、比較的在宅仕事の多い小説家がどのように生きてきたかを語る、エッセイのようにも見える小説だった。
離婚歴があり、おそらく子どものいない八色は、子ども時代、父の仕事の都合でアメリカ(カリフォルニアのサクラメント近郊)に住んでいた時期があった。当時知り合った、2歳上のアン(アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた三姉妹の長女)と、近所に住んでいたカズとの、付かず離れずの交流が淡々と描かれる。
研究者の父がポスドクとして渡ったアメリカで、母は家政婦の仕事をする。保育園に入っていなかったわたしは、母の仕事先に連れていかれ、大邸宅や、庭に穿たれた腎臓のようなかたちのプールを目の当たりにする。父の上司の家(これも大邸宅)でのホームパーティーで、嚙み切れなかったステーキをそっと口から出してプールの中に投じる。ちょっと。デイヴィッド・ホックニーの絵にでも出てきそうなカリフォルニアのプールの底に静かに沈んでいるステーキの不穏さ。
そんな、あっけらかんとしているようで、色々なわだかまりのあるアメリカ生活を共通の風景として分かち合うアンとカズとわたし。カズの娘弓田ミナトが、スパイスのように現れるが、ミナトと、アンの姪以外、若い人は殆ど現れない。それぞれの親とか、きょうだいとか、同業者とか、アメリカにいた時代の共通の知り合いとか、姿を見せるのも、物語の重要な狂言回しになるのも、年配者が殆んど。たまに年齢への言及があり、はっとさせられる瞬間以外、登場人物たちが六十代半ばであることを意識させれることは殆どない。枯れていない。欲望もある。でも妙な静謐さがある。
交流が途絶えていた間の様々な経験、愛と憎しみ、そういったものが稀薄な気配となって、お互いの間を漂う。言葉を選び、相手の出方を見ながらの会話。コロナによる行動制限により、そのコンタクトの仕方も、手紙だったりメールだったり、LINEだったり、Zoomだったり、言葉に敏感な職業なので、そのコンタクト手段による距離感の違いも微妙に感じたりする。そしてリアルに逢ったときの感情のほとばしりに、ドキッとする。
どこかの書評で、六十代も捨てたものではない、みたいに書かれていたが、そうねぇ、でもこの小説は六十代という特定の年代へのエールではない。
随分長く生きてきたものだよという感懐を、疲れとしてではなく、自分を発酵させる大切な要素として、別に珍重はしないまでも、自然に自分の中に取り込む。それが出来ることで人生はじわっと、濃厚なものを垣間見られるものとなる。
その、ちょっと背筋が伸びたような感触で、恋愛関係ではない人とも、何らかの感情のほとばしりを見せながら付き合っていけるんじゃないか。そんな気持ちになる一冊だった。
無理に若ぶる必要も、逆に年寄り気分になる必要もない。今見えているもの、これまでに見て、感じてきたものが、自分のなかにうまく取り込めることで、語ったり発信したり出来るのではないか。
「吉行淳之介だけれど、もともとは牧野信一の」という章で、『キャッと叫んでロクロ首』という表現が出てくる。八色はこの原典を吉行淳之介と思ったが、吉行の『無作法のすすめ』によると、そのことを言ったのは牧野信一だったらしい、と書かれている。
わたし自身は初めて聞いたフレーズだったが、これから、夜中とかに過去の思い出したくないような記憶が頭の表面に浮かび上がってきたらきっと、「キャッと叫んでロクロ首」ってつぶやいてしまいそうだよ、と思って読んだ。
こんなような、含蓄というのともちょっと違う、八色とアンとカズのこだわりが沢山出てきて、わたしも後を追いたい、と妙な決意を固めてしまったことである。
また、あらためて時系列で2020-2023年と言う時代を振り返る物語となっていて、感染者が増えたり減ったり非常事態宣言が出たり解除されたり、老いた両親を感染させるわけにはいかない、と、実家を訪問している間ずっとマスクをしているエピソードとか、逆に会食の席でずっとマスクをしていて、目にもとまらぬ速さでマスクをめくって飲食する人の姿を見て興ざめしたり、あれはいったい何だったのだ、と、つい最近のことなのに、こうして書かれると驚くようなことが沢山あることに気づかされた。
作家のプライベートを垣間見る要素もあり、でも小説なんだからまるっと信じてもいけないよね、と自分をけん制したり。
多重的な読書であった。
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