毎日読書メモ(124)『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(ブレイディみかこ)
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』、『THIS IS JAPAN 英国保育士の見た日本』に続く、わたしにとって3冊目のブレイディみかこは、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋)となった。友達からオンライン読書会があるよ、と勧められて、慌てて、近くの田舎の小さな本屋(棚すかすか)に行ったら、なんとほんのわずかな単行本の棚の一番目につくところに、表紙が見えるように立ててあった。需要あるのか、ブレイディみかこ。本人曰く『ぼくイエ』(って略称は誰が作ったんだ?)以外はさっぱり売れなかった、と言っていたけれど。
で、『ぼくイエ』の感想に書いたように、わたし自身もこの本の中で、僅か4ページ取り上げられただけのエンパシーという言葉に強く惹きつけられ、この本を読んでみたのだが、作者の息子が学校でエンパシーの概念について問われた際に答えた「他者の靴を履いてみる」という表現があまりにも印象に残り、ただ「履く」でも「履かされる」でもない、能動的な「履いてみる」にポジティブな印象が強く、かつ好感をもって残ったのだが、たった4ページのエンパシーについての文を、1冊の本に拡張できるくらい、エンパシーの概念は広く多様で、かつ難しい。一方で、先に『ぼくイエ』を読んでいなくてこの本だけ読んだら、あまりに多様なエンパシーの概念が次々と繰り出されることに、クラクラするかも、と思った。雑誌「文學界」の連載の単行本化で、学術論文ではないが、多くの本を参照して書いているものなので、巻末に参考文献一覧(またはブックガイド的なもの)が付いていれば、もっと読者にとってわかりやすかったのでは、と思った。
とりとめもなく感想。
アナーキズムを無政府主義と訳すとちょっと違う? しかしアナーキストというと今でも大杉栄・伊藤野枝に戻ってしまうくらいで、アナーキズムは社会的に広く受け入れられている概念ではないが、政府に上から押し付けられるのではなく、主体的に生きることを志す、ということがエンパシーのよりどころともなる。まず、自分という主体がないと、エンパシーは難しく、靴を履いてみた他者に飲み込まれてしまうおそれがある。
Cognitive Empathy と Emotional Empathy、人によって、どちらに強く寄るかが違ってくるようだ。共感は快感となりうるが、それはエンパシーとはちょっと違う? 近いものへのエンパシー(というよりむしろシンパシーか)は持ちやすいが、自分から遠い人にはエンパシーは働きにくい?
ストックホルム症候群や共依存まで、エンパシーの範疇に入るのか?
サイコパスはたぶん、エンパシーは持たない。世の中にカリスマとか天才とか呼ばれる人がいて、そういう人がいてこそ歴史は転換する(よきにつけ悪しきにつけ)という側面があるのだが、歴史を動かす力を持つ天才はたぶんエンパシーはあまり持たない(往々にしてサイコパスなのではないかと推測する)。というか、たぶん人々のエンパシーはこうした天才に吸われてしまうのかもしれない。歴史まで言うと大袈裟だが、組織を動かす力は、人のエンパシーを吸い取る力を持った人が発揮するのかもしれない。
保育論、教育論、英国政治、ブルシット・ジョブとケア職、自由、色々なファクターが詰め込まれた1冊で、読書会で人の話を伺っても、人それぞれ印象に残った部分も違い、多くのトリガーを持った本だな、とあらためて感じた。そして、いつもながら、じゃあ自分には何が出来るの、という問いが最後に残る。
#読書 #読書感想文 #ブレイディみかこ #他者の靴を履く #アナーキック・エンパシー #猫町倶楽部 #ぼくイエ #文藝春秋 #読書会 #エンパシー
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?