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毎日読書メモ(191)『ゆっくり十まで』(新井素子)
近所ですてきな本屋さんを発見して、入ったからには何か買うぞ、とうろうろしていたら、新井素子『ゆっくり十まで』(角川文庫)を発見、お持ち帰り。9月に出た新刊でした。
人はSF者に生まれるのではない、SF者になるのだ。人は新井素子に生まれるのではない、新井素子になるのだ。ボーヴォワールのぱちもんみたいなこと言っちゃいました。でも新井素子は徹頭徹尾SF者で、徹頭徹尾新井素子。他の誰も新井素子にはなれない。「高一コース」(学研の学習雑誌)に、竹宮惠子の挿画で『星へ行く船』が連載されているときに初めて読んだ15歳の頃から40年以上、新井素子は新井素子以外の何物でもなかった。唯一無二。
『ゆっくり十まで』は、ウェブマガジンで連載されていたショートショート集。お題というか共通テーマは「偏愛」ということで、さまざまな偏愛の姿が繰り広げられる。もう読んでいるだけで顔が赤くなるような純愛の物語の裏に大きな因果が隠されていたり、そもそも生命体ではないものが、愛情を抱いた相手に妄執の念を抱いた結果、予想外の事象が展開されたり、ペットと飼い主の不思議な関係を描いたり。その想像力の飛躍は、新井素子以外の何者でもない。竹の秋を描いた「百二十年に一度のお祭り」は、ちょっと他の作品と風合いが違う。花が咲いて死にゆく竹の少女が、歓喜に震えながら花を次々と咲かせ、でもついた実は殆ど発芽しない、という哀しい行く末が待っているのに、植物の種は時を超えて、いつか種子から繫栄するようになる未来まで運ばれることを想像する。その自由な発想と想像力で、物語は淡く光を放つ。おばあちゃんの最後の願いを、おばあちゃんの没後かなえた孫娘が天国のおばあちゃんと交信する「コンセント」や、政略結婚で幼くして嫁いできたお姫様の寂しさをまぎらわそうとして逆に寂しさを増幅してしまう「王妃様とサミ」などは滂沱の涙。
行間から「だいすき」な気持ちがぽろぽろこぼれ出す、宝物のような物語たち。四十年以上、いつでも、どこを切っても新井素子でいてくれてありがとう、という感謝の気持ちと共に読む。