【詩的生活宣言】詩は、ファッションである。
「詩」とはなにか。
詩を書こうという人は、この問いを抱えながら生きることになると思います。
文学史上における詩史とは、詩人たちが自らの「詩」のありようを表現してきた歴史でもあります。
その線上にいま私たちはいて、かつての詩人たちが築いた「詩」を引き継ぎつつ、そこに新しいかたちを見いだそうとしている。それが、現代詩人のしていることだと思います。だから、狭義の「詩」、つまるところ、文学形式上の「詩」はいま100年あまりの時をかけて磨かれてきたことになります。
この100年のあいだに磨かれてきた「詩」というジャンルが作り上げてきた世界観は、多くの人の心をつかみ、そして「詩人」というイメージをかたちづくり、「文学」という立ち位置を確固としたものにしたように思います。
しかし、いま、文学形式上の「詩」を読む読者はどれほどいるのかというと、千人に一人いればいい方なのではないでしょうか。僕は文学部出身で、大学院まで行きましたが、それでも詩を読む人はほぼ周りにいませんでした。せっかく、100年かけて築き上げられたものが、いまや国語の教科書で無理矢理読まされる「意味のわからないもの」になろうとしています。
この「意味のわからないもの」というのは、多くの人が詩を読まない理由の一つだと思います。通常、人はそこに言葉があれば、「なにか伝えたいことがあるのだろう」という前提で読みます。しかし、詩は、読んでもはっきりと「これが伝えたいことです」とは言ってくれません。だから、結局何が言いたいの? 「悲しい」なら「悲しい」と言えばいいじゃないかと、読んでいて言いたくなることもうなずけることです。
とはいえ、詩を読むという行為は、「なにか伝えたいことがあるのだろう」という前提を変えるところからはじめなければなりません。はじめに言っておけば、詩は「藝術(アート)」なのです。
僕たちが日常的に情報伝達のツールとして使うのが「言葉」なわけですが、このとき、「意味を伝えること」が目的になります。意味を伝えられなければ話したり、書いたりする意味ほほとんどなくなります。だから、「言葉」で書かれている詩を読んだときに、意味が伝わらないと、「は?何言ってんの?意味わかんない」ということになります。
ところが、詩は「言葉」で書かれた「藝術」なのです。だから、「意味を伝えること」が目的ではありません。何を優先するかは詩人によって異なりますが、おそらくこういっていいでしょう。
詩の目的は「美」である。
「言葉」には、音があり、響きがあり、意味があり、さらには文字があることで、その姿があり、それぞれで感触が異なります。詩は、そうしたものを最大限活用することで、美的世界をつくりあげることに主眼があるのです。だから、「は?何言ってんの?いみわかんない」はそもそも当然の感想なわけです。
詩が、いちばん誤解を生んでしまうのは「言葉」で書かれているというところにあるのでしょう。そして、それによって、意味のわからないものとして嫌厭され、読まれなくなる、読む意味さえわからなくなる。そうしたものになってきてしまったのでしょう。
これは、詩を愛読している者にとっては悲しむべきことではありますが、読まれなくなる背景も十分理解できることです。そして、そこに僕たちは新たな「詩」の可能性を見いだしていかなければならないように思います。
ここで再び問いましょう。
「詩」とはなにか。
「詩」は、単に文学形式上の一ジャンルを示すものではないのではないか。
よく、何かの景色を見たり、音楽を聴いたり、映画を観たり、マンガを読んだり、アニメを見たり、写真を見たり、そのときの感想として「詩的な表現」と言うことがあります。
おそらく、その感想をこぼす人には何か言いようのない感動があって、それを表現したいのだけれど、どうにも言葉にすることができない。そのときの、何とか言葉にしたいという意識のあらわれが「詩的な」なのだと思います。(それを思考停止と言ってしまえばそれまでです)
端的に言えば、この「何か言いようのない感動」を「言葉」で表現しようとすることが「詩」という文学形式なのですが、それはいまは措いて、いま考えるべきは、この文学形式上の「詩」に、「詩」があるわけではなく、自然の風景だとか、人の作品だとか、営みだとか、そういうところに「詩」があるということです。
メディアがまだ本、新聞、雑誌程度しかなかった時代は、この「詩的感覚」はそれこそ文学形式上の「詩」に求めるしかありませんでした。
ところが、いまは映像もあれば、インターネットもあります。「詩的感覚」はいつでもどこでも、どんなコンテンツでも味わうことができるようになりました。そうなれば、『君の名は。』の映像美に感動をしていた方が、大好きな著名人の美しいInstagramを見ていたほうが、はるかに楽で楽しいわけで、いまや詩人が「詩的感覚」を提供するまでもない時代になりました。
これを憂いたくもなりますが、時代の流れですから仕方ありません。だから、いまこの前提に立ったうえで、文学形式上の「詩」は、詩人は、何を提供していくべきかということを考えていくべきだと思います。「文学史」に身を捧げた人は、ひたすら「文学史」を掘る詩を書き続けていけばいいと思います。でも、僕は今の時代だからこそできることを考えていきたいと思います。
そこで、一つ、詩の愛読者からは怒られてしまうと思いますが、あえて言ってみたいことがあります。
「詩は、ファッションである。」
はっきり言って、詩を愛読している人でも(これも怒られてしまうかもしれませんが)詩をすべて味わいきっているかどうかはあやしいところだと思います。僕も読んでいてよくわかりません。
それでも、なぜ詩に惹かれるのかといったら、僕は「かっこいいから(広義の意味で)」だと思います。
僕は萩原朔太郎の「漂泊者の歌」を読んだとき、超かっこいいと思いました。
はっきり言って、そのとき、どんな意味なのかもよくはわかりませんでした。
文学史的に萩原朔太郎の『氷島』が「文学的退却(レトリート)」だと評価されていようと何だろうと、この漢文書き下し体が心地よく、当時の自分の気分にもすごくマッチしていました。それからというもの、ことあるごとにこの詩を口ずさみ、その言葉を言っている自分がなんだかかっこよくなれたように思ったものです。
ファッションは外見で、自分の生き方を表現できるものです。
詩もまた、話す言葉、読む言葉によって自分の生き方を表現できるものであり、よく意味はわからないけれど、それを身につけること(内面化することも含めて)がかっこいい。
「詩集」というものを手に取ったことがある方は、より一層それを理解できるでしょう。近頃は本当に大きな書店でなければ谷川俊太郎レベルの詩人の詩集くらいしか置いていませんが、「詩集」を手にとると、どれも装丁にこだわったものばかりで、本のサイズも一般書籍と異なるものが多いです。
ですから、中身よりも、外見。この「詩集」という存在がすでにしてファッションなのです。
そして、まだメディアや流通の仕方が限られていた時代に、このファッショナブルな装丁は、詩を読んでもらうことへのたゆまぬ努力でもあったはずです。しかし、いま、「詩」は、「文学」は。読まれるためには、その見せ方も「詩」であるべきです。インターネットがあります。流通は劇的な変化を遂げました。みなさんに「詩」を届ける方法もまた、ファッショナブルでなければならない。これは発信者としての問題ですが。
ともあれ、いまの時代、均質化したモノばかりが溢れているなかで、人びとは「モノ」そのものへの価値よりも、「モノ」が持っている「ストーリー」にこそ価値を感じて「モノ」を買ったり身につけるものです。
あなたが紡ぐ言葉にどんな価値があるのか。他の人と何が違うのか。アクセサリーを身につけるように、「詩集」を身につけてみてはいかがでしょうか。
鞄のなかに一冊の詩集がある。
それは、あなたを飾る言葉である。
それは、あなたの思想である。
それは、あなたの生き方である。
それは、あなたの生活の一部となる。
本棚というクローゼットにしまった「詩集」をその日のファッションにあわせてコーディネートしてみよう。
詩を、「文学」の世界から「美」の世界に取り戻そう。