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#36 再び、詩的生活

何事もなかったようだ。

緊急事態宣言が解除されてから1週間ほどが経とうとしている。ぼくの職場も今日から通常勤務が再開した。緊急事態宣言の解除とともに、世の中が再開の方向に動き出して、人びとも以前と同じように街にくりだしている。

以前と変わったのは、マスク率がほぼ100%に近いということ。自粛生活の残滓として、この1枚の布切ればかりが誰の顔にもはりついているのはなかなか象徴的に見える。

ただ、何かその生活に違和感のようなものを感じるとすれば、この「日常」が、かつての「パロディ」のように感じられる点だ。ぼくの職場でも、かつての「日常」と同じように過ごすために、何重もの過剰な取り組みをしている。それは、一言で言えばかつての「日常」の「再現」をしている。

おそらく、この未曾有のウイルスによってぼくたちの生活は一変してしまった。オンラインでものごとが進み、その快適さと、なんらかの満たされなさを味わった。これまでの途方もない悪習の数々によって、疲弊しきっていた人々が、突然、人とのしがらみや移動や距離の問題をはじめとする「摩擦」から解放されることになったのだ。そこには歓びもあれば戸惑いもある。

戸惑いつつも、無意味に疲労していた満員電車や、不毛な人間関係を感じていた人たちにとっては、黙々と仕事をして、あとは余暇として愉しめる在宅勤務に、ある種の「真実」を見たのだと思う。

しかし、世界は再びもとの「日常」を取り戻そうとする。「真実」に覆いをして、かつての「日常」を「再現」しようとしている。凄まじいコストを払って、何事もなかったかのように、同じようにふるまおうとしている。

人びとは、そこにあるなんらかの「嘘」と向き合うことになっている。ただ、人びとはやがて「嘘」に「嘘だ!」と言い続けることにまた疲れて、だんだんと、「嘘でもいいや……」と言いはじめるのだと思う。

2か月間くらいの自粛生活で、なにかが大きく変わるような気がしたけれども、結局、再開したもとの勤務を通じて、根本的なところは何も変わらないのだなあと、少し絶望した。

でも、人に会える歓びに、少し「嘘でもいいや……」と帰り道に思ったのは事実で、今日の地獄のような日常の「再現」をする労働に、それでも「否」を唱える怒りのエネルギーのようなものはなんだか自分のなかで失われたような気がする。

疲れた頭で考えてもよくわからないのだが、「嘘」のなかにも「真実」があるのかもしれない。バカバカしい何かにも、何らかの人に与える良い影響というものがあるのかもしれない。

そんなことを、出勤再開の初日に考えている。

一旦、「部屋のなかの部屋」というエッセイとも日記ともつかない文章をぼくは35日間、毎日書いていた。書くに至った動機は、自粛生活という閉じこもり生活によって、確実に身体的にも精神的にも、ふるまいのようなものにも変化を感じていたため、その記録をつけてみようと思ったのが動機の一つだった。そして、そもそもの前提として、「詩」の言葉の変容を辿ってみたかったということがある。

その過程で、「詩」を書いてみたり、他の詩人と対話をしてみたくなって、「蒼馬の部屋-dialog-」という企画を考えてみたりしてきた。しかし、だんだんと「疲れ」が溜まっていって、日々、書いていくことも困難になったこともあった。その、極限が36日目で、ついに毎日連続投稿が途切れた。

ぼくにとって35日も続いたことが奇跡のようなものなのだが、悔しさはあった。だが、35日、観察しつづけ、考えつづけたことはぼくの詩に対する思想のようなものを鍛えたように思うし、確実に「詩」を書かせるようにもなった。そういう意味で、このエッセイは35日で役目を終えたのだと思う。

だが、こうして、もう一度書こうとしている。それはやはり、これまでの「部屋のなか」での生活から、再びもとの日常に帰ろうとしているなかで、また何らかの大きな変化があると思う。おそらく、またハードワークに戻って、体力的にこれを書くこともしんどくてたまらない日々が続くと思うが、それでも考えることをやめてはならないと思った。

どんなに支離滅裂な文章になろうとも、その軌跡を残していくこともまた実に人間らしく、生活がそこにあるように思う。そういう意味で、ぼくは再び「詩的生活」を掲げて生きていくことにする。たぶん、念頭にあるのはランボーだと思う。

ランボーが絶筆したのは、諸説考えはあるのだが、「詩」を書くよりも、「詩」として生きることを選んだのではないかとぼくは思う。「詩」として、「詩」のように生きるとは、どういうことなのか。

それははっきりと言えるものではないが、ふと自らのなかに「詩」が訪れることがある。人は、それをなんとか言葉にしようとして、言葉にすることができたときに「詩」になる。

言ってみれば「詩情(ポエジー)」のようなものなのだが、「ポエジー」そのものになることというのは、実はそう突飛なことでもないだろう。人生そのものが「文学」のようである人もこの世界には数多くいるし、生き様というのは実に人を打つものがある。

「詩」という文学は、おそらく、言葉によってその「生き様」のようなものを醸し、人を打つものなのかもしれない。だから、ぼくはこうした散文であったとしても、「詩」として、「詩」のように、生きる、そういう「生き様」を醸していきたいと思う。

なんでもない日常を記述することが、発酵して「詩」となっていくこと。それがまた、意識的に「詩」を書くときの土壌になっていくこと。

そんなことを、考えていきたい。

ひとまず、5月末までにあった投稿機関へは、すべて作品を投稿することができた。掲載の有無については天に任せるしかないのだが、区切りがついたので、長らくストップしていた長編詩に取り組んで、7月ごろに一度、本のかたちにしてみたいと思う。

がんばろう。

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