わたしはそう感じた、でいいじゃない
六番目の小夜子を読みました。
ストーリーとか設定は面白いのに、どうしても文章とか構成とかが読みづらくて、語尾に違和感を覚えることも多くて。何度も途中で投げ出しそうになった。なんとか読み切ったけど、わたしにはあわない語り口だった。
目的地まで最短距離で行きたくて、だけどとおりぬけフープを使うでもタケコプターを使うでもなく、ただただ民家の壁をよじ登ったりフェンスをくぐったり、ときには穴を掘って突き進んでいるような、そんな粗さというか進みづらさというか、見えにくさみたいなものが溢れているように感じてしまって、わたしにはなかなか読みづらかった。だったら既知の道を駆け足でゆけばいいじゃない、と考えてしまう。
言葉にそんなに過敏になってしまうなんて、ほんとうに生きづらい。
ここまでこだわるのなら、こだわらずに生きていくことができないのなら、とことんこだわって言葉だけで生きていきたい。
まあでもお話としてはときどきすごく怖くて引き込まれました。特に小夜子をみんなで読むところ、あれを考えつくのすごい。わたしあの場所にいたらきっと失神する。
ただ登場人物がみんなスクールカースト上位すぎるだろって感じでリアルさが垣間見えないなとは思ってた。もっと加藤みたいなのがたくさんいるんじゃないかな現実の高校には。しらんけど。
なんだかんだいって蜜蜂と遠雷は読みたいです。
まあこんなふうに、いい部分とちょっとアレ?な部分が混在しているのが世の中ですよねきっと。その比率が事物や人によっていろいろあるのも当たり前だし、みんなが良いって言うから自分にもいいわけじゃないし、自分と同じ意見の人がいると安心するのはわかるけどそこだけにすがるのもなんか違うし。
いいじゃん、自分が好きなものは好きだし、苦手なものは苦手だし、こわいと思ったらこわいし、楽しいと思ったら楽しい、で。それを他人に押し付けることさえしなければ、自分の意見や感覚はそのままでいいじゃん。そして他人のそういうのもそのままでいいじゃん。ぜんぶ受け入れるのはむずかしいけど、認めるというかその人はそう感じたんだから、それでええやん、みたいな。
なんだか偉そうな口ぶりになってしまったけれど、でもそういうアサーション信者みたいな、「世界中みんなアサーティブになれ!」って思うのも押し付けですか?
ああ、今日も脳みそが片付かない。
職場に新一年生が入ってきたので顔と名前と特徴がパンクしそう。でもみんなわたしと同じくらいかわいいからがんばれわたし。
「わったし〜、よし!かっわいーいぞ〜〜!」みたいな。
写真は桜でおめかしした校庭です。
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