『チラリズム』は死んだ
世界情勢が悪化の一途を辿る今、俺の心はとても優しく高揚している。
甘い醤油と根菜の旨味が優しく香る炊き込みご飯を食べた時のような気持ちだ。
それはなぜか。
それはノースリーブのワンピースの上にカーディガンを羽織った女性の二の腕が『はらり』と見えたからだ。
高層ビルのエレベーターに二人。俺は17階、彼女は14階を押した。
いい香りがする。
その女性は肩甲骨辺りまで伸びたセミロングできれいな髪をしていた。
まるで、毎月第二金曜日と第四金曜日は仕事終わりに早めに仕事を切り上げ、美容院でシャンプーをしてもらいに通っているような毛先までケアが行き届いていた。どうりでいい香りがする。
そしてホワイトのワンピース。緑のカーディガン。
それは白樺林の先に見える透き通った美しい支笏湖のエメラルドグリーンを思わせるような素敵なお召し物だった。
本物の『アフロディーテ』に出会えたと思った。
とてもいい気分だ。今夜は赤飯を炊こう。
とはいえ、ただ美しい女性を見た、というだけではこの高揚は説明できない。
それはブラウン管の向こうに松雪泰子を見た時とも、唐の玄宗があまりの美しさに息子の妻・楊貴妃を奪ってしまった時とも、京島原で美しい内八文字の花魁道中を見た時ともおそらく違うのだ。
何なのだろうこの高揚は。
この答えをこの『はらり』の中に考えてみようと思う。
元来、男性というものは『チラリズム』に正義を感じる動物だ。
風が強い日、サイクリングロード、歩道橋の下、席の高さが違う陸上競技場など、ある特定の条件下では締めるふんどしの力強さは違うものだ。
一部、肌が見えるというのはこんなにも好奇心を刺激するものなのかと毎日驚かされている。これは東西問わず肌を露出させる事はある種禁忌に近いとされて来た事から、人間の『魂』に刻まれてきたのであろうと思う。
浅香光代先生には頭が上がらない。
しかしそれは間違いのない絶対的真理なのだが、何かが違う。
今回の場合は『チラリ』ではなく『はらり』。何かが違うのだ。
かく言う俺も『チラリズム』には何度も心を救われた。
陸上競技に明け暮れた高校時代。何もセンスが無く頑張れる事など一切無かった俺が、唯一陸上競技には没頭できた。
この大会で結果を残せば選抜になり、卒業後も大学での競技の継続を視野に入れる事が出来る。そんな大会で、俺はライバル校の選手に僅差で負けた。ひどく落ち込んだ。宍戸梅軒の鎖鎌の如く下がる首を俺は擡げる事は出来無かった。
青春は終わったが仲間がまだ戦っている。観覧席に回ったが応援する気分になれなかった。悔しさが拭いきれなかった。
チームを背負う立場だったにも関わらず、目の前の現実を受け止めきれず、この競技場で息をしている事が耐え切れなくなった俺は、顧問に先に帰らせて貰えるよう直談判しに向かおうと決めた。
立ち上がろうとしたその時、俺の後ろに広がっていたのは、落ち込む俺を『人生落ありゃ苦も有るさ。涙の後には虹も出る』と黄門様の如き優しさで抱きしめてくれるような『ひとひらのパンチラ』があった。
おれは立ち上がるのを止めた。しばらくその印籠から目を離す事が出来なかった。俺の右太ももの助さんと、左太ももの角さんが、ご隠居のそばに居たいと切に願うのだ。
『チラリズム』には、人の心の糸の緊張をほぐす力がある。
そう確信している。だが思い出してほしい。
今回のケースは厳密に考えて行くとどこか何かが違うのだ。
『チラリ』と『はらり』。何が違うというのだ。
俺は来る日も来る日も『チラリズム』を徹底的に調べた。
そしてそこにある疑問点が2つ生まれた。
まずひとつは『重力』の話だ。
この星に生まれ育った人間にとっては、切っても切れない概念である『重力』。今回のこのケースに当てはめて考えてみると、この『重力 』のアシストが大きく関わっているのではないだろうか?
カーディガンから『チラリ』とカーディガンが『はらり』。
スカートから『チラリ』とスカートが『はらり』。やはりそうだ。
『上から下へ』と、『下から上へ』の違ったニュアンスが感じられる。
これは人間にとって『当たり前』になってしまったこの星の神秘である『重力』がなぜ『上から下へ』、地球のコアへ向かっているのか、それを考えさせられるものになっているようだ。
ここにたしかに違いがあったのだ。
そしてもう一つがとても重要な話になる。
それは
ー『チラリズム』は ”見える” ものなのか ”見せる” ものか。ー
この違いは大きくある。『チラリズム』にはある種、幸運的な意味も含まれていると俺は考える。故意に見せようとするものではなく、『見えてしまった』のニュアンスだ。そこに本能へのアプローチが隠れているのだ。
それはさらに細分化していくと『見た』ともまた違う。
『見た』となってしまうと、その目標に向かって行きやっとの思いで『見た』とユーリ・ガガーリンの『地球は青かった』級の努力や鍛錬がバックボーンに感じられてしまい『チラリズム』の美学に反してしまう。
そして『見せる』が入ってしまうとまた違ったものに感じられてしまう。
『あざとさ』というやつだ。
カーディガンから二の腕が『チラり』。この響きには何故か、この『あざとさ』を感じてしまうのは俺だけなのだろうか。
個人的には『あざとさ』のある女性の魅力は十に理解しているつもりだ。
あの日、陸上競技場で出会ったご隠居様がもし『わざと』印籠を見せてきていたとしてもあの日の思い出が消えることはない。
しかし昨今、どの業界にも『チラリズム』は浸透していき今となっては9割以上の女性が『男性はチラリズムが好き』という事を知っていしまっているような気がしてしまっている。
これにより、『見えてしまう』の角度に男性が入り込むと同時に、男性がすきなチラリズムを『見せる』『見せてしまう』という事が脳裏によぎるケースが頻発してしまっているのでは無いだろうか。
それが『わざと』ではないとしても、その『0.00何秒』の世界の中にこの『チラリズムの美学』は隠されている、そう思えて仕方がないのだ。
『チラリズム』という概念は死んだのだ。
ノースリーブのワンピースの上に羽織ったカーディガンが『はらり』。
この瞬間には地球の中にある神秘が働き、この煩悩にまみれた人間の思考は存在せず、美しさにあらがう事が全くできない。
それが俺が高揚した理由なのだろう。
オリュンポス十二神の人柱である『アフロディーテ』は神器として『魔法の宝帯』を持っていたという。この『魔法の宝帯』を身に着けることで『アフロディーテ』は美しさが増し、『愛』や『欲望』を操り、神々の心さえも支配する事が出来たという。
『はらり』。
この美しさにあらがう事が出来なかったという事はいわば、ノースリーブの上に羽織ったカーディガンというのは、現代のに現れたアフロディーテの神器、『魔法の宝帯』と言っても過言ではないと、そう思えてしかたがないのだ。
この星の1億年の霊長類の歴史に、そしてサピエンスの歴史に刻まれる事を願う。そしてこの文章を『ユヴァル・ノア・”ハラリ”』氏に送る―
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