スバラ式世界シンクロニシティ
シンクロニシティが日々加速している。
頭の中に浮かんだものや考えていたことが、現実の中にふと置かれることがある。まるで誰かが用意してくれたかのように。
ある曲が頭の中にふと流れ、この曲は何であったかと昼間に考えていると、その夜に久しぶりに開いたTwitter(今はXと言うでしょうか)の画面に、その曲のアーティストについて書かれたツイートを発見する。それを見て、あの曲はTamas Wellsであったと答えがわかる(Tamas Wellsのことツイートする人なんてそうそういないのに)。
ある学習塾で十数年前に英語を教えていたことをふと思い出し、その学習塾の名前は大手塾の名前と似てるけど大手じゃない方の名前でどっちがどっちだったかと考えていると、その夜に開いたFacebookの広告に、その大手塾の広告が出てきて答えがわかる(今まで学習塾の広告なんて出て来たことないのに)。
検索したり口に出したりなどはしておらず、全て頭の中で考えていただけのこと。その答えがたまたま開いたSNSの広告などに現れる。
これはもう頭にチップが埋め込まれているのではないかと疑うべき事例でもあります。
このようなデジタル的なものだけではなく、アナログ的なシンクロニシティも度々起こっているので、
脳内チップはどこまでの性能があるのか、可能性の広がりを見て行きたいところです。
ある時ドラッグストアへ行くと、何故かその時は包帯売り場が目に付き、家の救急箱の備品に包帯でも追加しておこうかと思い、めったに買わない包帯を買って帰ると、学校から帰ってきた息子は手の指にひどい突き指をして腫れており、指を固定する包帯が必要であったことがありました。
つい数日前は息子の習い事が終わって帰る時、車に乗り込みエンジンをかけると、車のオーディオに繋いでいるiPodから、選曲をしていないスピッツの『流れ星』がふいに流れてきました。車のオーディオとiPodの連動が上手くいっていないのかこの現象は頻繁に起こり、決まったアーティストのアルバムを選曲しておいて車に乗るたびに聴いていても、ある日突然エンジンをかけ直した時にその選曲していたアーティストではなく、私の意思とは関係なしに他のアーティストの曲に変わっていることがあります。
単純に接続がうまくいってないのだと思っていますが、このスピッツ『流れ星』は偶然ではあろうけども意味深く感じる理由がありました。
それはこの日を挟んで連日、流れ星を夜空に見ていたからです。
流れ星や彗星、隕石、火球の区別がよくわかっていませんが、割と大きさのある光ったものが、しっかりとした尾を引き流れて行く流星。時期的なものであるのかそんな流星を最近よく見ていました。
スピッツの『流れ星』が車で流れた前日にも白い尾を引く流星を見ていて、『流れ星』が流れてたその日の夜にも流星が流れていくのを見たのです。この日の流星は真横に流れて行き、赤白い尾が長く伸びたとても綺麗な流星でした。南東辺りに上がってきているオリオン座に向けて流れて行く流星。赤白く輝き真横に流れていく流星がとても印象的で、その美しさを心に刻んだ夜でした。
iPodには1万曲以上の曲が入っていますが、その1万曲の中で『流れ星』がこのタイミングで流れてきた意味を考えてしまいます。
スピッツの『流れ星』の歌詞を改めて読んでみましたが、やっぱり正宗さんの歌詞は素敵だなと思うだけで、これと言う答えに繋がるものは見つけられませんでした。
これはシンクロニシティというより、怪奇現象と言えばそうなのかもしれませんが。
そんな怪奇現象、いや、シンクロニシティも日々いろいろと起こっており、脳内チップ機能の可能性もかなり広がっております。
そして先日はまた驚きのシンクロニシティが起きたのでありました。
最近ふと、ここ数十年ほどずっと忘れていたけど昔よく読んでいた作家さんのことを思い出すことがありました。
その作家さんのエッセイが大好きで、新刊が出る度に買って楽しく読んでた二十歳頃。その作家さんの文体というかエッセンスのようなものが、自分の中に宿っているようにも思えるくらいよく読んでいた作家さんです。
先々月からこのブログを書き始めた私ですが、この作家さんのように楽しく読んでもらえるような文章を書くことができたらいいなと思うことがあって、この作家さんのことを久しぶりに思い出していたのです。
そんな折に出会ったシンクロニシティ。ここ最近のルーティンの中から起こった出来事でありました。
家からそこそこ近いショッピングモールの中にある大きめな書店へ行き本を買い、そのショッピングモール内にあるサンマルクカフェでコーヒーを飲みながら買った本を読む、週1〜2回のそんなルーティン。
先日、いつものようにその書店へ行き本を書い、その日はお会計の時にレジ横に置いてあった小冊子をもらってきました。岩波書店が毎月出している小冊子、岩波『図書』の11月号です。
そしていつものようにサンマルクカフェへ行き、コーヒーを注文し、この日はもらってきた岩波『図書』11月号を読むことにしました。居心地の良い端にある席に座り、コーヒーを飲みながら(本当はブランチのパンも食べながら)、岩波『図書』を読もうと表紙をめくり、何気なくもう1ページめくりました。するとそこには突然、二十歳頃にいつもよく見ていた、とても見慣れた形の漢字四文字が浮かび上がって見えていたのです。
見慣れた懐かしい形
漢字の四文字
数十年前から今に届いてきた名前
それは
原 田 宗 典
二十歳頃に好きで読んでいた作家さんの名前
原田宗典さん
私の本棚にずらっと並んでいた漢字四文字の名前
原田宗典さん
です。
「原田宗典」と書かれたその文字が、突然に目の中に飛び込んできたのです。
なんだそれだけのこと!と思われるかと思いますが、それだけのことなのですが、本当にこれには驚かされてたのです。
突然の再会です。この「原田宗典」という、馴染みのある漢字四文字を見た瞬間にハッと息を呑みました。
「原田宗典」と書かれた漢字の読みを頭が理解して意味を為すより前に、「原田宗典」という見慣れた懐かしい形の文字がただ映像として頭に飛び込んで来ました。
「原田宗典」という文字を久しぶりに目の前に置かれ、数十年前の感覚が重さを持って私の中に入ってきたのです。
突然の「原田宗典」と書かれた文字との再会に動揺しました。このところ原田宗典さんのことを数十年ぶりに脳内で思い出していたこともあり、「ここで!?」と、今ここで再会したことに驚かされました。それは動揺と同時に心の奥から歓喜するものでもありました。喜びの再会となりました。
この日偶然手にした小冊子の、偶然開いたページに書かれていた原田宗典さんのエッセイ。
数十年ぶりに触れた原田宗典さんのお話。
懐かしい誰かと出会った感覚と、心の中にはずっといた感覚と、知らないけど知っている不思議な安心感のある世界。
二十歳頃に原田宗典さんのエッセイを読んでいた時は、抱腹絶倒でまわりに人が居ないことを確かめてからではないと読んではいけない本でしたが、数十年ぶりに読んだ今回のエッセイは、笑い転げるような話ではなく、涙が溢れ出す心に染みる切なくも暖かいお話でした。サンマルクカフェの片隅でコーヒーを飲みながら私は泣きました。
数十年前から繋がってきたこのシンクロニシティ。
こまやかにいろいろなことが繋がって、今また原田宗典さんに繋がったのです。
脳内チップ、怪奇現象と見方はいろいろあるけれど、シンクロニシティの意味を今一度噛み締めます。
「意味のある偶然の一致」
意味を持たせるかどうか、それをどう繋げていくか、ほんのわずかな些細なことでこの先の流れは変わっていく。
日々のささやかなシンクロニシティが繋がって、その行く先には何が見えるのだろう。
11月8日に原田宗典さんの新刊『おきざりにした悲しみは』が岩波書店より発売されました。
このシンクロニシティがなければ、2024年の私は目に止めることなく、出会うことはなかったことだったと思います。
今週またいつもの書店へ行き、原田宗典さんの新刊を買って、サンマルクカフェの端の席でコーヒーを飲みながらシンクロニシティを噛み締めて、『おきざりにした悲しみは』を読もうと思うのでした。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
追加:
後日、原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』を、サンマルクカフェで読んだ時のお話の記事です↓