「SDGs」と言えなくて。
いえ。
SDGsそのものに何か物申したいというのではないのです。
そして、ほかの人が「SDGs」と言っていることに違和感があるということでもないのです。
ただ、自分が「SDGs」という言葉を発するときに、少しハードルがあるというか......。
日本語だと「持続可能な開発目標」と言われていることは知っている。
その目標は17個あることも聞いたことがある。
でも、その17個をよく理解しているかと言われると、とたんに自信がなくて。
よく理解していないのに、「SDGs」なんてカッコよさげな略語使っていいのかな、という葛藤なんだろうか。
せっかくなので、この機会に17個見てみることにする。
こういう風に並べると、なんというか、課題山積だし、そのひとつひとつひとつも簡単に解決できるものではないなと改めて思う。
たとえば、貧困をなくそうとか飢餓をゼロにと言ったって、ただ物質的援助をし続けていればいいわけではないだろうし。
もちろん物質的な援助が不要なわけではないが、貧困から抜け出したり(適切な表現がわからないけど)する方法まで考えなければ、貧困は存在し続けるんだろうなと思う。
対症療法になってしまう。
この中17個の中で、わたしができることはなんだろうと考えたけれども、どれひとつとしてひとりだけでは完結できなさそうだ。
そうするとやはりわたしができることはちまちまとしたことで、それを地道に積み重ねていくくらいしかできないと思う。
それこそ、小学校の「総合的な学習の時間」でやったごみの分別によるリサイクルとか、無駄にレジ袋もらわないとか。
あとは、大人になってお金を使う機会が増えたことを考えると、SDGsに積極的に取り組んでいる企業のものから優先的にお気に入りを見つけるとか、衝動買いをしないとか。
少なくとも地球環境に関することで挙げてみると、どれも目新しいことはなくて、SDGsということばが浸透する前の、あるいは掲げられる前の、「省エネ」や「エコ活」ということばの時代と変わりはないのではないか。
個々人ができることは変わってなくて、でもそのずっと変わってないことを、それこそ"持続する"のが肝要だしハードルにもなってくるんだと感じる。
やっぱりわたしは、まだ、
「SDGs」はかっこよすぎて(?)口には出せない。
仮に、何か意識してSDGsにつながるアクションをしていますか?と聞かれたときには、「ちょっとしたエコ活くらいのことはやっています」と答えようと思う。
これがわたしの、今のところのSDGsへの向き合い方だ。
【追記】
◆一方で、ジェンダー、人や国の不平等、働きがい、安全な水、の問題などに対して、「日常的にあなたに何ができますか」と言われると、正直なところ答えを持ち合わせていない。
ただ、それらが話題になったときに、理解しようとすることはできると思う。
話題から遠ざからないでいることは、今の時代を生きている者として蔑ろにしてはいけないことだと思う。
◆国連の広報センターのサイトに、このような記述があった。
きっと、これまでの人々も、自分たちの生活をよりよくしようとして(もしかしたら他に勝ちたいからなどの理由もあったかもしれないけど)きた。
その当時にはわからなかったものが、科学などの進歩によって、いま、「問題だ」「そのままにしておいてはいけない」とわかり、それが大きくまとめても17個もの課題になったのだろう。
では、先人が悪かったのかというと決して全部が全部そうではなくて、そのおかげでいまがある側面も大いにある。
課題が洗い出されたいま、どうにか食い止めたり改善したりして、できるだけ地球にいろんな人種の人たちが生きることを持続させるというのが、これ以降の人たちの役目なのかな、と考えたりする。