イグアナの娘 〜母の呪縛と赦しの物語〜
萩尾望都の『イグアナの娘』という作品をご存知だろうか。
わずか50ページほどの短編でありながら、この物語は人間の心の深層に潜む複雑な感情を鮮やかに描き出す。1992年の発表から30年以上の時を経た今なお、その輝きは少しも色褪せていない。
萩尾作品を偏愛していた私が初めてこの作品に出会ったのは高校生の頃だったと思う。当時は単純に「母親の歪んだ愛情」という側面からしか読み取れなかったが、精神科医として様々な親子の物語に触れるうちに、この作品の持つ深い示唆に気づかされることになる。
物語は、ある母親の不可解な知覚から始まる。
長女がどうしてもイグアナのように見えてしまうのだ。夫や周囲の人々には普通の女の子として映る長女を、母親だけがイグアナとして認識する。この設定の持つ意図の深さに、今でも鳥肌が立つような感動を覚える。
母は次女を溺愛し、長女との比較を繰り返す。「潰れたトカゲみたいな声」と長女を罵り、次女の猫のような可愛らしい声を褒めちぎる。その描写を読むたびに、診察室で出会う数多くの患者たちの表情が重なって見えて仕方がない。
愛されるために「良い子」でいることを強いられた傷ついた子供の心をもった患者たち。彼ら/彼女らの瞳の奥の無限の寂しさは、この物語の長女と重なって見える。
しかし、この作品の真髄は最後の場面にある。
母の遺体に対面した長女の目に映ったのは、まさにイグアナの顔だった。傍らの叔母が「だからそっくりだって言われていたのよ」と語るその瞬間、全ての謎が溶ける。母は自分に似た娘を愛せなかったのだと。
この物語に描かれる母の行動の根底には、深い心理的な防衛機制が働いている。
母は自身の内面に潜む「受け入れがたい部分」——社会的に期待される女性像や母親像に合致しない要素——を、自分に酷似した長女の上に投影していたというわけだ。これは自己の内なる葛藤から目を逸らし、心の均衡を保とうとする無意識の試みだったと解釈できる。
この心理メカニズムは作中で繊細に描き込まれている。
例えば、母親は長女の外見に対して激しい拒絶反応を示し、その姿をイグアナとして認識している。また、野球好きという「女の子らしくない」長女の趣味や性質を頑なに否定し続ける。
学業面でも、学年一位という優れた成績ですら完璧でないことを責め立て、際限のない要求を突きつける。そして何より特徴的なのは、「理想的な女の子」として描かれる次女との絶え間ない比較だ。母親は次女の中に、自身が求める女性像を投影し、それを過度に賛美することで、長女への否定をより強化していったのである。
このように、母親の示す一連の行動は、単なる偏愛や差別ではない。それは自己の内なる闇との向き合いを避けるための、複雑な心理的防衛の表れだったと考えられる。
精神分析の世界では「投影性同一視」という言葉でこの現象を説明する。しかし、この専門用語が説明するのは、あまりにも複雑で繊細な人間の心の機微のほんの一部に過ぎない。
私たちは誰しも、自分の中に受け入れがたい何かを抱えている。それは時として、最も愛する人への歪んだ感情となって表出する。母親もまた、社会が求める「理想の女性像」と自己の本質との間で引き裂かれていた被害者だったのかもしれない。
診察室で出会う母親たちの多くも、同じような苦悩を抱えている。完璧な母親であろうとすればするほど、自分の影の部分と向き合えなくなっていく。その苦しみは、往々にして子どもたちへの過度な期待や比較という形で表現される。
萩尾望都は、自身の体験をもとにこの物語を紡ぎ出したという。しかし彼女は、個人的な経験を遥かに超えた普遍的な真実を描き出すことに成功している。
『イグアナの娘』というタイトルの二重性にも、作者の天才が垣間見える。最後まで読んで初めて気づくのだ。これは「イグアナに見える娘」の物語ではなく、「イグアナ(である母)の娘」の物語だったのだと。
母の死によって真実を知り、赦しに至る長女の姿は、私たちに希望を与える。他者への否定的感情の裏には、往々にして自己との向き合いにくさが潜んでいる。その事実に気づき、受け入れることから、真の癒しは始まるのかもしれない。
今日も世界中の診察室で、新たな母と娘の物語が紡がれているのだろう。
彼女たちもまた、いつか自らの物語を受け入れ、赦しの境地へとたどり着けることを願わずにはいられない。