わたしの好きな人の話を聞いてほしい / 本居宣長

長らくの間、座右の銘を聞かれれば、本居宣長の著作『うひ山ぶみ』の一文を引いてきたわたしですが、本当に好きな著作なので、そのよさを皆様にお伝えすべく、筆をとった次第です。これを「いつか彼について書きたいと思っていた」という風に始めると、小林秀雄そのものになってしまうのだけれど、この気持ちは確かにわたしのものでもあるので、目を通していただければ幸いです。「わたしの好きな人の話を聞いてほしい」シリーズ(になるのか?)第1弾、本居宣長についてです。

本居宣長とは

そもそも本居宣長とは、十八世紀、江戸時代の国学者で、35年の勉学の果てに『古事記』の全巻に注釈を付し、清書を完成させた人物です。彼や彼の研究については専門書に詳しいので、来歴等については省略しますが、数々のエピソードから見受けられる、思慮深く、人に強くものを言わない態度も、彼のことを好きな理由の一つです。



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(出典: http://www.norinagakinenkan.com/ )

『うひ山ぶみ』とは

そして『うひ山ぶみ』と言うのは、「初めての山歩き」と言う意味で、長い間古事記研究を粛々と続けていた本居宣長が、周囲の人々に「初学者向けの入門書を書いてくれ」と頼まれて書いたものだそう。

「古学(国学)があつかる範囲を定め、学問するものの心得を述べ、さらには学問のあるべき姿を論じ、契沖(江戸前期の国学者)に始まる近世古学を歴史的に考察し、なぜにわれわれは古学をするのか、そのためにいかなる研究の方法があるのか、といったことを、学問の初心者に向かってわかりやすく語るのである。」(白石良夫, 2009, p.52)

本居宣長の学問観は大きく ①自分のしたい学問を修めること ②諦めたり怠けたりすることだけはしないこと ③あるべきとされる方法にとらわれず、自分の思うように進めること の3つに集約されると思っています。倦まず弛まず努力をすれば、長い年月はかかろうけれど、満足のゆく成果を出すことができると励ましてくれます。

本文抜粋

以下『うひ山ぶみ』本文のうち、わたしの特に好きな箇所を引きました。一つでも皆様の心に響くものがあればと思います。

同じく精力を用ひながらも、そのすぢそのまなびやうによりて得失あるべきこと也。

【口語訳】同じように精力を費やしても、自分に向かない分野や間違った方法では、その得るものは大きく違ってくる。(白石良夫訳, 2009, p.52)

然はあれども、まづかの学びのしなじなは、他(ひと)よりしひてそれをとはいひがたし。大抵みづから思ひよれる方にまかすべき也。

【口語訳】とはいっても、どういう分野の学問をやるかは、他人がこれと押し付けることはできない。自分が選ぶべきもので有る。(白石良夫訳, 2009, p.52)

詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学び方よくても、怠りてつとめざれば功(いさをし)はなし。


【口語訳】ようするに、学問は、ただ年月長く倦まず怠らず、励みつとめることが大事なのだ。学び方はどのようであってもよく、さほどこだわることはない。どんなに学び方がよくても、怠けてしまってはその成果はおぼつかない。(白石良夫訳, 2009, p.54)

又、人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才・不才は生れつきたることなれば、力に及びがたし。されど、大抵は、不才なる人もといへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也。


【口語訳】また、人の才能のあるなしによって、学問の成果は異なるのだが、才・不才は生まれつきのことであるので、如何ともしがたい。しかし、大抵は、才能のない人でも、怠けずに励みつとめさえすれば、それだけの成果はあがるものである。(白石良夫訳, 2009, p.54)

又、晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外、功をなすことあり。又、暇のなき人も、思ひの外、暇多き人よりも功を為すもの也。

【口語訳】晩学の人でも、つとめ励めば、意外な成果を出すことがある。勉強する時間がないと言っている人も、案外、時間のある人よりも成果を上げることがある。(白石良夫訳, 2009, p.54)

されば、才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて止むることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば出来るものと心得べし。全て思ひくづをるるは、学問に大きにきらふ事ぞかし。

【口語訳】であるから、才能がないとか、出発が遅かっただとか、時間がないとか、そういうことでもって、途中でやめてしまってはいけない。とにもかくにも、努力さえすれば出来るものと心得るべきである。諦め挫折することが、学問には一番いけないのだ。(白石良夫訳, 2009, p.54)

※ これが、冒頭で少し触れた、わたしが普段座右の銘として引用している箇所です。

凡(すべ)ての件(くだり)の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず。ただ便りに任せて、次第にかかはらず、これをもかれをも見るべし。

【口語訳】全てのそれらの書物を読むのに、かならずしも順序を決めて読まなければならないことはない。ただ便宜にまかせて、順序に関わらず、あれこれと読めばいいのである。(白石良夫訳, 2009, p.73)

又、いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず。まづ大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又さきによみたる書へ立ちかへりつつ、幾編もよむうちには、始に聞えざりし事もそろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也。

【口語訳】また、どんな書物を読むのにも、初心のうちは、初めから文義を理解しようとしてはいけない。まず大まかにさらっと見て、他の文献にうつり、これやかれやと読んで、さらに前に読んだものにかえればいい。それを繰り返しせば、最初に理解できなかった事も徐々にわかるようになるものだ。(白石良夫訳, 2009, p.74)

古きをも後の書をも広くも見るべく、又簡約にしてさのみ広くはわたらずしても有りぬべし。

【口語訳】古い文献も後世のものも広く見渡してもいいし、場合によっては簡単にして広くしなくてもいい。


『うひ山ぶみ』を知った当初、わたしは大学に入学して中国語の勉強を始めたばかりで、「言語を一から学ぶ」ことの途方もなさに圧倒されていましたが、あの頃から今の今まで約5年間続けてこれ、またこの先もずっと続けることができるように思われるのは、ひとえにこの言葉に出会っていたからこそと考えています。大学を卒業後、新卒で会社に入るに伴い、新たに全く別の分野について一から勉強することになったのですが、もし自分にこの道に求められる十分な才能がなかったとしても、ある程度のところまで形にすることはできるに違いないし、少なくともただ進んでゆくことならできるだろうと信じています。

皆さんも、学生であるかどうかに関わらず、何かしら独自に勉強したり研究したりされている事柄があるとすれば、それについて心が折れそうなったときや、日々の忙しさに迫られて志が低くなってしまったときなど、ぜひ『うひ山ぶみ』を手にとってみてください。そもそも学問とは修めるまでに途方もない時間がかかるものであるということ、それに絶望せず、少しずつでよいから進むのだということ、その進み方に正解や不正解はなく、ただ自分の心の惹かれるままに学ぶのでよいのだと言うことを思い出すことができるはずです。道は長く、果てしないものに思われるかもしれませんが、諦めずに粛々と学び続けて行きましょう!

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